#内側を言葉にしていくための文章講座 | 第1回
まずは話の道筋・結論を考えて、文章全体の骨組みを作ってから、そこに肉付けしていく……。
というのが、一般的な文章の書き方かもしれません。そうすると文章は全体的にしっかりまとまってくれるし、効率も良い。けれどもそうしたやり方だと、自分の文章が自分の想像の範囲内で小さくお利口に収まってしまうやないか、とも思ってます。
「いや、自分の文章なのだから、自分の想像の範囲内のことを書くんじゃないか?」と思われるかもしれないけれど、考えを文字にしていくという行為は、普段は外に出さない内面側の「じぶん」との会話でもある。口から先に生まれてきたタイプの人だと、喋っているうちに考えがまとまってきたり、思いもしないアイデアが口から先に出てくる……みたいな経験がある人も多いかもしれませんが、それに少し近い現象が書いている最中にも起こり得る。
若しくは漫画家さんや小説家さんが、「キャラがひとり立ちして勝手に喋ってくれるようになると楽になるんですよね」と発言していることがあるけれど、それとも似ているかもしれない。私はフィクションは書かないけれど、文章を書く行為にちゃんと潜れているときは、内面側のじぶんが堰を切ったように饒舌に喋る。
そうした状態に入ると、言葉が自分を先導し、ぐいぐいと引っ張っていってくれる。それまではチンタラと地面を歩いていたのに、途端に自転車に乗ったみたいに景色がビュンビュンと変わって、それが何事にも変えられないほどに楽しい。本当に楽しい!
だから私は書くことが好きです。バイトも会社勤務も3年以上続けられなかったような性格だけど、書くことはもう23年以上続けられている。頼まれていなくとも続けられることって、大なり小なりの中毒症状が入っていると思うのですが、書くというのは私にとって最大の快楽であり、それを取り上げられてたまるものか! という気持ちがあります。
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しかも書くことは、役に立つ。てんでばらばらだった感情がひとつの「思想」としてしっかり編まれ、自らの支柱になってくれることもありますし、書き残しておくことで記憶に定着して、会話の引き出しがうんと増えたりもします。書かないと忘れちゃうんですよね。
これだけでも充分素晴らしいことだけど、さらに文章をネットに公開すればその声を、届けるべき相手に届けられるかもしれない。見知らぬ土地にいる誰かと、もしくは既に出会っていた人と、会話でのコミュニケーションでは辿り着けなかった、やわらかな繋がりを得られるかもしれない。少なくとも私は、インターネットと文章を通じて出会うべき人と出会って、救われてきた経験がたくさんある。
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さて。実はこの冬に京都で「思考を言葉にしていく前と後」という講義をさせていただくことになり、がんばりたいので、noteで徐々に講義内容をまとめていくことにしました。まず今回は大筋を、そして細かいTIPSは後日また別で書いていこうかなと。
この文章は、お金を稼ぐためのライティングだとか、バズるための文章講座だとか、そういった類のものではありません。(そうしたものを期待するのであればこちらをどうぞ、古いですけど…!)私はこうやって書きながら快楽を感じ続けている……というごく個人的な方法論を整理した記録です。金になる類のものかはわからん。でも、どうしても感性が置いてきぼりになってしまいやすい社会の中で、何かしらの役に立つかもしれません。
かつ、私はそうやって文章を書くことを生業にしてしまったので、「快楽だけじゃなくて、ある程度の技術もいるよね」という部分も多少なりとも書いていきます。
書くことに悩んでいる人、自分の感性が迷子になってしまった人、お喋りは得意だけどじっくり考えることが苦手な人……そうした人の一助となるかもしれない。なったらいいな。では、書いてまいります!
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まずは、下地をこしらえておく
自分の輪郭をちゃんと知る
文章はひとつの表現手段ではあるけれど、根本的には伝えたいことを伝達するための道具です。だから文章を書くテクニック以前に、日頃何を考えていて、自分が社会に何を伝えたいのか……という強い動機を持っていることのほうがよほど大切。
とはいえ、自分はこのために生きている!という社会的な自意識を持っている人は少数派なんじゃなかろうか。もっとも、そうした自意識はある程度ミュートしておいたほうが生きやすいですしね。
ただ、文章中毒になるには、まずはそうしたミュートをはずしてあげたい。恥ずかしさをとっぱらって、個人的なやわらかい部分を探っていく。
今現在のことじゃなくても構いません。いっそ子どもに戻って、時系列で思い出すとより鮮やかになるかもしれない。やりやすいのは、「嫌だったこと」で記憶を回想していってみること。
たとえば幼稚園の頃、虚しい気持ちになった場面。中学時代、猛烈に恥ずかしかったこと。実家を離れてから、新しい街で感じた生きづらさ。はじめての恋人との付き合いを今振り返ってみると、明らかにおかしかったこと……。
人によって「これは嫌」という場所は違います。つまり日々感じている小さなざらつきをちゃんと言葉にしていくことで、おぼろげだった自分の感覚に輪郭が与えられる……ということもあります。
もちろん、「これが本当に嬉しかった」「あれに心がときめいた」というプラスの感情も、自分の輪郭になる。嫌なことと嬉しいことの回想を同時開催しておくと、心のバランスが取れるので、おすすめです。
そしてこの段階では、社会性は捨て去ったほうがいい。反抗期、さらにはイヤイヤ期に戻ったような気持ちになって、これまで我慢し続けていた内側の声を聞いてやる。とことん聞く。そして紙のノートでもパソコンでもなんでもいいけど、とにかく書き殴っていく。「誰かに見せる」という前提は一旦捨てたほうがいい。文体がどうだとか、社会倫理的にどうだとか……そういったことは、この段階では一切考えずにとにかく聞いて、ドバドバ出す。デトックス的な作業です。
ただ間違えても、感極まってその内容をそのままツイートしないように気をつけて。実際のあなたはイヤイヤ期の赤ちゃんではなく、良い年齢の大人ですので……立場を失いかねません。
一瞬の閃きを書き留める
回想をたっぷりやったならば、次は日常の閃きを蓄えていきたい。
たとえば通勤路にある些細な、けれども美しい草花に心が動かされて言葉が浮かんできたり、ずっと悩んでいたことに関して「あ、こうすれば良くなるかも!」 という閃きが途端に降ってくることもある。けど、そのままにしておくとすぐに消えてしまう。
蝶々をつかまえて虫籠に入れておくように、そうした言葉や閃きを、数秒以内に書き留めておくようにする。「夜に日記で振り返ろう」と思っても、夜になったら大体、綺麗さっぱり消えてます(少なくとも私は……)。
私は「きた!」と思ったらiPhoneのメモに書いてます。ちなみに私の場合、シャワーを浴びてるとき、銭湯に入っているときに閃きやすい。だから行き詰まったら銭湯に行きます。閃きをコントロールすることはむずかしいけど、「閃きやすい状態」を意図的に作って再現性を上げることは出来るので……(銭湯にスマホを持ち込めないのが玉に瑕ですが)。
この段階では文章の形になってなくてもいいから、とにかく単語だけでも残しておく。そうした刹那的なメモは、いずれ自分の宝の山になってくれます。「さぁ、書こう!」と机に向かっても降ってこないものですし。
文章を書いていく
1.まずは感情を転がしてみる
さて、そうやって日頃から下地を耕しておいた上で、ようやく文書の書き始め。私はだいたいいつも、自分の閃きメモや、感情の書き殴りなどを見返しつつ、時流を見つつテーマを決めて、そのときの感情を思い出していくように書き始めます。
この書き方を「テクニック重視」にしてしまうと、堅苦しいテンプレ的な文章が出来てしまうので、あまりお勧めしません。ただ、書き出しに悩んだら「カメラの画角」を意識したら良いかもしれない。
静かな映画を思い浮かべてみてください。ジャーン!と派手に始まるものではなく、
・まずは何気ない会話からスタート
・会話内容でなんとなく、登場人物の関係性がわかる
・次に主人公の内側の声が入り、そのキャラクターが伝わる
・それから季節や風景がわかるカットが入り、舞台設定がわかってくる
・俯瞰してドローン撮影、全体像が掴める
・物語が始まっていく
……みたいな映画。こうしたシーンの移り変わりをそのまま、文章でやっていくと転がってくれやすいです。まずは近いところから。そして徐々に引いていく。
最初から俯瞰して状況説明をしても良いのですが、そうすると読む側にとって「他人の出来事だな」となってしまう。ニュース記事だとそれで良いんですけどね。
ちなみにこれはネット生まれの物書きならではの書き癖かもしれないのですが、ネットの場合は「最初の一文での共感性」を得られない場合、離脱されてしまうことが多くてですね……。最初に台詞から、もしくは感情から入ると、読み手と書き手の心が重なることが出来ることもあり、ぐっと世界に招くことが出来るんじゃないかな……という考えもあって、台詞スタートが多めです。
たとえば以下は「じゃあ、アイルランドはどうですか?ダブリンは良い街ですよ。少し雨が多いけど……」という台詞からはじまる文章の例。
「じゃあ」から入っているので、その前に別の国が候補に上がっていたけど却下された……ということがわかる。そして「雨」というと一般的にはネガティブな言葉ですが、冒頭の台詞直後で私がそれを肯定的に捉えていることで書き手の性格を伝えつつ、「雨」というキーワードを文章全体に散りばめて憂鬱な色をつけています。
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そしてさらに、最初に出てきた台詞を、最後に(形をすこし変えて)また使うのも効果的。わかりやすい例をひとつ挙げておきます。
以下は私が編集をさせてもらった、木村石鹸の木村社長のnote。「なぁ、うちの社員は凄いんやぞ」という冒頭の言葉が、最後にもう一度登場します。入口と出口がちゃんとつながると、気持ちがいい。
(あとこれは大阪の話なので大阪弁にしてますが、方言を適度に入れるとぐっと世界観が強くなるのでおすすめです。やりすぎると読みづらいんですけどね)
さらに以下のnoteでは、細かく編集プロセスまで書いてくださってるので、参考にしたい方は是非こちらもどうぞ。
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ちなみに私自身、文章を書く前にある程度の見通しが立っていることもあれば、書いているうちに別の方向にゴロゴロと文章が転がっていって収集がつかねぇ!ということもままあります。
そうした執筆プロセスは職業としてライターをする上では効率は悪いし、世に出せないお粗末なボツ原稿も山ほど生まれる。でも、そういう模索がなけりゃ発見も出来ないし、快楽も得られない訳で。ボツ原稿というよりも、自分の肥やしとして、そういうものも大切に保存しています。
2.外側の事象と重ね合わせる
そうやって感情の赴くままに文章を転がしただけでも、じゅうぶん意味はあります。そこでおそらく、自分自身の輪郭はかなり明確に見えてくる。
でも、そこで出来上がったものを他人に読んでもらうには、ちょっとドロッとしすぎているかもしれない。
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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。