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経済的な思考力を商才とイコールで繋ぐ基礎とは何だろうと思う事があります。
義務教育と高等学校での生徒の色分けでは文系と理系のみしか自身の方向性、資質を選択できない物理的状況への疑問符があります。
加えて芸術系、体育系であっても文系と理系の2系統のどちらかに組み込まれる悩ましさを感じる点もあります。

社会が経済から構成された共助システムである認識は商業科がある高校以外で、果たしてどこまで教育課程にあるのかと誰かに訊ねてみたい気になります。

最近はものづくりや様々な媒体を形づくる総称に‘コンテンツ’という呼び方をします。
恐らく30年前辺りからその言葉が常識的に汎用されたと思われます。
コンテンツが成り立つ為には投資的な価値が見出だされる前提条件を充たす必要があります。単純に言えば「売れる」見込みが担保であり経済概念に沿うということです。例えば、芸術やスポーツはコンテンツに成り立ち易い媒体に他なりません。

昔の人の言葉からの理にはいつも納得させられるのですが、‘読み書きそろばん’が出来たら社会で生きていけるとした、その事を学校という場所で勉強するんだと、親が子どもに教えた昭和30年代頃までの家庭にはそんなやりとりが日常茶飯事ではと推測するのです。

文系と理系に分ける上での専門性特化の意義は資質の向上に役立つ要素も否定できませんが、経済概念を一旦、教育上放置するプロセスを私は改める時機に来ているのではないかと思うのです。

社会は‘読み書きそろばん’が長けた人間たちによる共助である、つまり経済活動が正常に回転していることにより自身の資質がある種の表現活動として受け入れられる、これは公務員志望も勿論含まれます。この根本的な有り様を大学を卒業してから一種の徒弟制度の中で、大人の階段を昇らされることが現在までの日本のスタイルです。最近は社会経験、職業を知るみたくの課外研究を採り入れる高校も有るようですが、これは単に「富士山はキレイだな」に近いものでしかないという風に私には映ります。

10代に経済概念が何故にそんなに必要なのかを改めて見直したのは現在話題のディズニーチャンネル放映中の『ザ・ビートルズ GET BACK』を約8時間視聴し終わって、彼らの解散理由について、私なりにある確信に至ったからです。どんなに素晴らしいコンテンツでも形成するのは人間であり、マネージメントするのも人間だという点です。これから観たい人もいると思いますので、具体的には述べませんが、もしアーティスト自身に経済概念があれば不測の事態も消去法で乗り切れた可能性があります。恐らくそこが現在も現役の当時のロックバンドの双璧、ローリング・ストーンズとの違いと思われます。

表現者であればこそ、マネージメントを学ぶことが現在は非常に重要だということになります。そのきっかけは自身の経験、体験を二次的な教育側面として、一次的は学校教育に組み込む必要があると、私は思います。
これぞ転ばぬ先の杖です。

ピーター・ジャクソン監督作品
『ザ・ビートルズ GET BACK』
とにもかくにも歴史的資料に、
目からウロコの気がつくと8時間。
語り合いたくなること必定(笑)




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