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‘ユーモア’ほど感受性の差異が表れるカテゴリーはないと思います。
どのようなシチュエーションであれば、もしくはアクションか言葉の選び方なのか、或いはストーリーテリングなのか、様々なのです。

私の考える、ユーモアには単純に‘笑い’だけに特化するのではなく、和みの要素も必要と思います。和みにはある種の予定調和も含まれた、砕けばどこか馬鹿馬鹿しさとも解される「だからどうした」と言い換えてもいい、とるに足りない空気緩衝材の役割なのです。

会話や語りが上手い人に共通するのは、無意識意識的関わらず、その心得を感じます。
この方法論は会話であれば対話側からのリアクションが入りやすく、展開がさらに波状的に広がる特徴があります。とどのつまり、会話終了のタイミングはどちらかの一方的ではなくフェイドアウト、自然の成り行きで空気に委ねることが可能だということです。

ユーモアを単なる笑いと解するのではなく、温かみと解した方が全くの正解と考えます。
表現の世界にユーモアは絶対的に必要だと考えられるのは、先述したリアクションを呼び込める作品の提供こそ、双方向の創造性が生まれる可能性を孕んでいるからだと解されるからでしょう。

長年続いたテレビメディアの影響から、一般的な日常生活にもアクション、言葉の発出とふるまいに勘違いを思わせるケースに遭遇する時がかつてありました。
本人はユーモアめかして場を作ろうとされているのでしょうが、それがどこか吉本興業の人気タレントの受け売りのようでもあり、知的要素もなく、一方通行の親切みたく自己本位にしか映らないのです。

この点、テレビメディアからの流れがYouTubeへの投稿動画配信にも共通した‘即時性’に該当しなければウケが悪いと見なされる傾向過多に集約されると考えます。
結果を求め過ぎるのでしょう。

笑いはユーモアの要素でもありますが、即時性に転化しなくてはいけないとは思えず、人格や信頼できるコミュニティあっての妙だと私はそう捉えます。

失われた30余年と云われて久しい平成時代から現在までの間で、本当に失われたものは何なのか…ユーモア一つ取り上げても、もはや存在、概念が難しいことなのかと。
目の当たりにしている出来事すべてに違和感が現実世界でも、そしてメディアでも思わずにはおれない、ふとした気づきがあります。

2019年に亡くなった世界を代表する名音楽プロデューサーのトミー・リピューマのワークス3枚組のCDを購入し、事務所で書類作業をしている時はトミーサウンドプロダクションの素敵さにリラックス空間を作ることに成功しています。リラックスからユーモアが生まれると私は思っています。


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