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なぜ利休は抹茶ラテを作らなかったのか、或いは伝統と創造についての雑想

「この利休に まっ茶ラテを作れと!」と千利休が驚愕するギャグ漫画のひとコマは、ネット上でミーム化されて時々見かけるものになっている(ご存じない方は是非検索して頂きたい)。
勿論これはギャグ漫画の話であり、史実の千利休が抹茶ラテを作って客をもてなした、という記録は残っていない。

ここで私には、ひとつの疑問が生ずる。
利休はなぜ、抹茶ラテを作らなかったのか。
天下の利休が抹茶ラテなんか作るわけがない、というのが大方の見解だろう。侘び寂びを重んずる利休の茶室で、そんな軟派な、スタバかコンビニで売っているようなソフトドリンクが出てくるはずがない、という考えは当たり前のことだ。

しかし私はこう反論したい。利休が抹茶ラテを作らなかったのは、単にその時代に抹茶ラテという概念が存在しなかったからに過ぎないのではないか、と。
勿論、当時最高の茶人である利休が、抹茶ラテの存在を知っていたとして、わざわざそんな変化球で客をもてなす必要はないのかもしれない。それなら、別に利休にこだわる必要もない。織部なら、丿貫なら、三斎なら、有楽斎なら、遠州ならどうしたであろう。

戦国時代から江戸時代初期にかけての茶人たちは、自分のやり方をひとつの流派にして人に教えた創始者たちであった。先人から良きものを受け継ぎ、それに自分の創意工夫を加えて、我流を超えた普遍性を持たせようとしていたのである。そうした試行錯誤の中で(もし存在が知られていれば)、名だたる茶人の茶室で抹茶ラテが出されることもあり得た可能性も考えられないだろうか。

日本には、様々な芸能や芸術、武道が古くからの伝統として存在している。日本人がそれらの「形」を守り伝えることを好んできた結果だろう。素人の浅はかな思いつきは淘汰され、真に価値のある独創は次代に受け継がれる。時を重ねる中で吟味され、洗練されたものだけが生き残ってきたのだ。そうした時間の風雪に耐えてきたものには、苔むした重厚な石燈籠のような風格が備わっている。

だから、伝統を継承してきた人に、それを捨てたり勝手にアレンジしてみろなどと言うつもりはない。裏千家だの薮内流だのを習っている人に、茶会で抹茶ラテを出してくれと頼んだら張り倒されても文句は言えない。
一方で、こうも考えてほしいのである。もし戦国の世に抹茶ラテが知られていたなら、あの偉大な宗匠たちは、それで客人をもてなすことはしなかっただろうか、と。

話は変わるが、私は和装が好きだ。特に用事らしい用事がなくても着物で出かける。以前和装で飲みに行った店に洋服で来てみると、他の常連客に「今日は着物じゃないんですね」などと言われた経験も何度かあった。頻繁ではないが、着物好きが集まるような飲み屋に行くこともある。そうした店の客には、着付けや色・柄だけでなく、生地の産地や素材に一家言ある人も少なくない。化繊の着物は着ない、という人もいるのだ。
天然素材に比べて風合いや肌触りが良くないから、ということが理由でもあるだろうが、やはり化学繊維なる近代文明の産物が、和装という伝統文化の中に混ざり込んでいるのが許し難い、という気持ちの問題が大きいように感じる。

ここで私の中には、先程と同じ疑問が頭をもたげてくるのだ。もし化学繊維の衣服が大昔から存在したら、紫式部や清少納言は、織田信長や徳川家康はそれに袖を通さなかっただろうか、と。まあ清少納言なら枕草子に「化学繊維なるもの、生地の艶はテロテロして、いとわろし」と書いたかも知れないが。ともかく、昔の人が化繊を着なかったのは、それが嫌われていたからではなく、存在しなかったからに過ぎない。正絹や麻、綿など、天然素材の着物を守っていくことには大きな意義があるが、昔は無かったからという理由で化繊の着物を爪弾きにすることもあるまいと思う。安価な化繊製品や、着付けの理屈上ではウソになる二部式着物とかワンタッチの帯が、初心者にとって和装を始めるハードルを下げていることは間違いない。

話がとっ散らかってしまったが、結論はシンプルだ。
伝統文化をそのまま守ることは重要で、それは社会全体にとって計り知れない価値がある。その一方、伝統として存在しているものも、ある時点では誰かの独創であったり、当時の流行であったりしたものであることも忘れるべきではない。昔の人がそうしてきたから何も考えずにそうするのだ、と思考停止しているようでは単なる怠慢・守旧であって、外見上の形式は整っていても魂が抜けている。そんな退屈なものは、いずれ滅んでしまうだろう。

この雑文の終わりに、独創ということについても触れておかなければならない。自分自身がやっている創作活動は、昔からの形を守る伝統芸能ではないという意味において独創ということになる。下手の考え休むに似たり、というから、独創だから価値があるなんてことは勿論ない。クリエイターだから偉そうにするとか、周囲が持ち上げてチヤホヤするというのは百害あって一利なしで、創作者の全てが弁えるべきことだ。別に謙虚な人間ではないが、その点は勘違いしないように気をつけている。
自分の作品が歴史に残るほどの才覚があるとは思っていないし、死んでから評価されたって嬉しくもなんともない。ただ、自分が生きているうちに、何人かの人から「良かったね」と言って貰えれば、最期には笑って死ねるだろう。

つ旦 粗茶

最後までお読み頂き感謝に堪えません。お代を頂戴して売るほどの文ではないのですが、もし面白かったと思って頂けましたら、現在制作中の短編映画のクラウドファンディング(2024年8月末日〆切)に御協力賜りますようお願い申し上げます。下記のリンクよりキャンプファイヤーに移ります。


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