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映画の起源(6):エジソンから遠く離れて

前回お話したように、誰かが映画を撮影するたびに、特許のおかげでエジソンにお金が入りました。そんななか、作り手の数が急増。なかには彼の手をすり抜ける映画製作者たちが出てきました。

1900年、エジソンの映画会社はアメリカで最も権力もお金もある会社でした。ライバルはエジソンの元助手のウィリアム=ケネディ・ディクソンが経営するバイオグラフ。(余談ですが、現在では35㎜のフィルムは、エジソンではなく、アシスタントだったディクソンが発明だったといわれています)創立は1895年です。

バイオグラフ社の稼ぎ頭は、エジソン社でくすぶっていたD・W・グリフィスです。1908年にバイオグラフ社に移籍し、頭角を表していきます。(グリフィスの話はまた別の機会に!)グリフィスは1913年までに400本以上の作品を製作しました。

同年、1908年に別の大きな出来事が起きます。犬猿の仲だったバイオグラフ社がエジソン社と手を組んだのです。訴訟の和解策としてモーション・ピクチャー・パンテンツ・カンパニーという、エジソン社を中心としたバイオグラフ社や米パテ社などの大手映画社の巨大トラストが創立しました。通称「エジソン・トラスト」(笑)エジソンはアメリカの映画王として君臨したのです。自国製作に限らず、ヨーロッパの輸入映画の流通にも牛耳っていました。

ただ、アメリカの映画市場の3分の1は、エジソン・トラストの網をかいくぐる独立系の制作会社の作品たちです。

彼らは、エジソンの手が届かないようになるべくN.Y.から遠く離れた場所に腰を落ち着けました。それがアメリカ大陸の反対側、カルフォルニア州ロサンゼルスの郊外、ハリウッドです。賃金や土地代が安いだけでなく、何かあればメキシコへ逃げ込めるという格好の避難所だったのです。

これらのハリウッドの製作者のなかには、のちにパラマウントやフォックスのような超大手映画会社の創設者たちの姿もありました。これらのスタジオの話は後日にゆずり、ここでは初期のスタジオのキーパーソン、マック・セネットを紹介しておきます。

マック・セネットはバイオグラフ社での経験を活かし、ロサンゼルス郊外に1912年にキーストーン社を創設しました。キーンストーン社の十八番はドタバタコメディ劇。「キーストン・コップス」という警察ギャグシリーズ(一番下にリンクがあります)を生み出しただけでなく、セネットはチャップリンやファッティ、ハロルド・ドイドなどの名コメディアン達を映画の世界に引き入れたのです。

セネットはさらに、1915年にD・W・グリフィスやトーマス・H・インスとともにトライアングル社を創立。初期のハリウッドの渦の目がここにありました。初期の映画スター、メアリー・ピックフォード、リリアン・ギッシュ、ダグラス・フェアーバンクらも名を連ねています。グリフィスの『イントレランス』はここで製作されたものです。

ついつい長くなりました。

エジソン・トラストは第一次世界大戦によるヨーロッパ映画輸入の減少、特許使用料の徴収期間の終了といった深手を負い、最後には反トラスト法違反という最後の一矢を報われ、1918年に解体となりました。

これで映画の起源編を終わります。次回からはまずは初期ヨーロッパ映画について話していこうかなと思います。




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