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神さまを待っている / 畑野智美

希望のある終わりを迎えた主人公を、もう私は羨ましいとは思わない。それは、私の成長であり、物語を真正面から受け止める若さを失ったということかもしれない。小説の始終を「これは創作だから」と割り切り自分への負荷を軽減する一方で、物語の結末が「一人でも多くの人の希望になりますように」と一読者の立場として願っている。

これは、貧困女子の再生の物語ではなく、人間関係への不信からの再生の物語だ。

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主人公の愛は、26歳でホームレスになる。派遣切りにあってからの約1年半、最貧困層の住人となった愛は、東京で貧困層を生きる人々の現状と自身もその中のひとりになったという事実に戸惑ったり躓いたりしながら、その日暮らしでも日々を生き延びることを懸命に考え続けている。

愛の行動からは、生き続けることへの絶望が感じられない。お金が無いこと、お金を稼ぐ手段に恵まれないことへの絶望は度々描かれるが、死という選択肢への絶望が無い。それは、前向きだと捉えることが出来る反面、実状に対する悲壮感に欠けるため、どこか浮ついた印象を受ける。

お金が無くなったら、住むとことにも食べるものにも困るという想像は生き続けることが出来ないという結果を想像することは易い。しかし、愛は、最貧困の人びとが貧困が原因で死ぬことがあるということをホームレス生活の中で感じながらも、自分もその可能性を持つ一人であるということを認めていない。

さらに愛は、ホームレスになってからの住処の選択や収入源についての超えてはならない一線を、自分で考えて決めているように見せて、実は出会った人間や心の支えになっている旧友(実際に会うのではなく、彼だったら、こう言うだろう、こう思うだろうという妄想に近い想像)の言動に振り回され続けている。

読み進める中で感じる違和感は、この主人公・愛の、当事者にして他人事のような視点での語りにある。でも、その視点が、その視点から感じる不安定さが、本当はこの作品の中で最も生々しくリアリティのある点だと思う。

愛は、自分がホームレスになったという現実を生きながらも、受け止め切れていないのだ。あっという間に慣れた、と自分の「堕ち具合」を語りながら、実は受け入れられない。それが、最貧困層に染まり切ることから愛自身を守っているのだが、ホームレス生活の中で出会った、マユやサチ、ナギの、最貧困生活での経験値が高い人たちから「あなたはそのうちここからいなくなる人」と見抜かれてショックを受ける。

作品内では、貧困の原因について、だれにも頼れないこと、繋がれないことと言及している。愛は、最貧困女子ともつながれず、仲間になれなかった。

新しい環境で出会った共感しあえるはずの人びととも、血を分けた家族とも結婚式に招いてくれる友達ともつながることが出来ない愛の、唯一の心の支えである雨宮という存在。彼が、愛を希望の見えるラストに導いてゆく。

読みながら感じる、愛の、生々しい思考の激しいブレの原因は何だろう。

自己肯定感の低さ? 四年制大学を出て就活も派遣も日雇いバイトもままならない自分を恥じるから? 

愛は、誰にも頼ることが出来ない一方で、誰かの「ヘルプ」に敏感だ。自分自身のこともままならない状況なのに、サチの家に招かれた時も、ナギと仲良くなった時も、二人それぞれとその家族のために何かできないかと考える。しかし、ぼんやりとした考えを巡らせるばかりで行動が出来ず、そのため経験が無いから相手の感情に想像が及ばない。その結果、相手をいらだたせたり、八つ当たり的に感情をぶつけて意に反し相手を傷つけてしまう。

自分のことを一番に考えられないのは自己肯定感の低さによるものだと思われるが、相手を想って考えることはできても自己完結の範囲を超えて行動が出来ないのは、これも「人を頼ること」の成功体験の無さ、人とのつながりがもてないことに起因していると、私は考える。

自分自身が人に頼ることが出来ず、「誰かに頼る」「誰かに任せる」ことによって何が起こるのか、上手くいくのかという結果を想像する力が乏しいのだ。想像できないことは、選択肢に含みにくい。

愛は、愛と母親に無関心な父のもとに育った。母も、愛が中学生の時に病でなくなっている。愛は、父親の家庭放棄の被害者であり、ヤングケアラーでもあった。愛にとって、「誰かに頼ったら助けてくれる」ということは、普段の生活から身につけられる常識ではなかった。

家族を頼ることが出来ない愛は、家族を頼って生きている仁藤や、家族を頼ることに抵抗が無い雨宮に、反感がある。マユ、サチが愛に感じた様に、愛も、仁藤や雨宮に「住む世界が違う人」とレッテルを貼る。そのレッテルには、少なからず嫉みが含まれている。

雨宮というヒーローの存在が、物語を一定の軽さに保ってくれている。

本作を読んで、「世の中、こんな都合よくない」と感じる人は、おそらく人に頼ることが苦手な人だと思うので、少し心のガードを緩めるきっかけにするといいと思う。

人を頼れない、人は裏切る、信じられるのは自分だけ。

そうして人間不信に陥りながら生きている人は、この現代社会に置いて貧困女子だけではない。愛を買ったケイスケも、愛の父親も、どこかで相手を信用できない反動を、自分より弱いと見定めた愛にぶつけたのだと思う。一方的に負の感情を相手に押し付けあう人間関係に、私たちは傷付き疲れている。

私は、本作を「愛の物語」として読んだので、愛がつながりを持つことに前向きになれたラストは希望のあるものだと感じた。

最終場面で、自分が力を取り戻しつつあることを自覚する愛は、その勢いを逃すまいと凪の救済を雨宮に提案する。しかし、雨宮は性急すぎると水を差す。

愛の勢いは病み上がりの病人が体調を過信した状態だから、その時点で自分の思いと実際の体力のギャップを体感してしまうと心はくじけるし、病状が長引く可能性が高くなる。まずは、愛がしっかり治る――自立することと、雨宮は釘をさす。

雨宮はいいヤツ過ぎて、すこし現実味に欠けるけれど、私も頼ることは不得手だから、そう感じるのかもしれない。

この物語で描かれる、一年半、という期間は、長いのだろうか短いのだろうか。

無職期間が半年以上あると再就職が難しいと言われる就活の世界では長いのだろう。しかし、人生の再起に欠けた時間とするなら、短く済んだと思えないこともない。資格や技術の習得にかかる時間はもっと長いこともあるだろう。「雇用社会から離れていた期間」で人間を判断する社会で無くなれば、生きやすくなる人がどれほどいるだろう。

畑野智美さんの作品は初めてであった。もう一作「シネマコンプレックス」が控えている。テーマは重いけれど、文章は読み進めやすい。貧困のキーワードとなる行政制度や法律も出てくるので、社会問題としての貧困に興味がある人が、一歩目に読んでみるのも、いいかもしれない。






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