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アートについて思うこと

この記事は、2020年10月29日0:06にTumblrに投稿した記事を転記したものです。

人の作品を見てるときに、作者が「この色にはこんな意味があってこの構図にはこんな意味があって」とか作品に対して説明をするシーンがあるけど今まで何か違和感を感じてた。

価値観の押し付けというか、思考が強制される感じ。その説明によって作品の捉え方が強制される感じに違和感を感じてた。

アート(芸術)においては、見てる人がどう捉えるか多様性に任せた方が良いと思う。

ただその逆に「どう捉えるかはあなた方にお任せします」的な作品も微妙なところ。

作者には明確に作品の意図があって「この作品を見て鑑賞者は〇〇と感じるか、△△と感じるか」みたいな選択肢を作者側で用意したものは作品として成立してると思うけど、そういった選択肢がない「何を感じるかは全てお任せします」的な作品は、作者の作品に対する逃げを感じてしまう。

考えることを放棄して公開して、評価されることだけを考えているように感じてしまう。それでされる「評価」は自己展開型じゃなくて受動型だから。すごく難しいけど、アートにおいては自己主張が強すぎてもダメだし、なさすぎてもダメ。そういう絶妙なバランスが大事だと感じる。

写真を芸術的に捉えたときはそういう感覚がすごく大事だと思う。

だって写真を撮ることは誰でもできるから。カメラのシャッターを押す作業は誰にでもできるけど、そのときにどう感じたか、何を思って撮ったのかって感性はそれぞれ違う。考えてシャッターを押したときにこそ感性が具現化されるから。

あと蛇足だけど、感性を具現化するときに使う機材も重要だと思って「いた」。絵を描くのであれば絵の具の素材、ペンの質など。カメラなら画質とかダイナミックレンジとか。そこにこだわることで自分の感性のディテールに拘る幅が広がるからとても重要だなと思って「いた」。でも最近思うことは、撮影技術や機材の性能は表現の一つの要素だけどそんなんじゃなくて、

結局のところ、その作品を後から見てどんな衝動を感じられるかだと思う。

写真がブレてても、思い通りの色味にならなくてもその作品を見たときに、シャッターを押した時の感情やその風景から膨らむ想像が大事と思います。



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