見出し画像

荘子の哲学/中島隆博を読む「鶏となって時を告げよ」

この本は学術文庫版で、原本は岩波文庫の『「荘子」鶏となって時を告げよ』である。

■感想
・ウィトゲンシュタインの言語ゲームの考え方は古代中国にもあった。ウィトゲンシュタインに通ずる「俯瞰した諦め」を荘子に感じた。この諦めのことは達観とも言える。
・この本自体は構成が体系化されていなく、読みやすい本でもないし求めているものが昇華された本でもなかった。荘子の入門書としてはお勧めしないが荘子の考えを知っている場合に様々な研究者の解釈に触れることができる本。
・荘子を含む昔の中国哲学の多くは、その金言にいろいろな含みを持たせ、それゆえに汎用性を持つものであるが、この本は著者や著者が読んだ本の解釈をまとめた本でありその意味で解釈が限定的となり道を狭めているなと感じるところがあった。
・中国哲学は、無用や有用や言や書や象など近代の日本語の意味を含む他の意味も含めた言葉となっており、それを少ない漢字文字で表現するため、意味が多く含まれ、それに解釈が増えていくのだと思った。またそれとは違って現代語は、細かく文脈として文字が多く思想を語りえる言語体系である場合、発言者と読者の意思疎通の強度を保つことができ、解釈は固定的になるがアフォリズムや金言たるものをそのまま保持することができると思った。

あとこの本の主題とは関係ないが作者の「学術文庫版へのあとがき」でいい文章があった
「最後に、いつも支えてくれているつまり美幸と家族に改めて感謝の意を表したい。自己変容は単独では起きず、常に誰かとともに変容することであるとすれば、わたしの自己変容は常に妻と家族の自己変容と共にある。」

山川哲学からの引用(荘子を気になったきっかけの概念)
- 無用の用
世間からは無価値なもの(無用)とされるものの中に、あるがままの自然の真の価値(用)があるという考え。人間が作為した有用・無用の区別は、人間にとって存在する相対的なものであり、自然のママの実在の世界は、そのような人為的な分別を越え、あるがままに存在すること自体に絶対的な善さを持っている。「莊子」内篇で説かれている。


■中島氏が述べる莊子の哲学についてのハイライト
- 古代中国において「天」を抜きにした思想を見出すことは困難。たとえ「天」の内容がそれぞれの学派において異なっていたにせよ、「天」は「人」の領域を基礎づける審級で有り続けていた。荘子は一方で、「人」の独自の領域を守ろうとしている。

- 「無」は「存在論的根源者」である。

- 「斉同」の考え方
荘子の無は、無というよりは無極、無限。無限の広がりの中では、対立差別は消失し、善悪美醜といった価値の差別もその意味を失い、すべてが斉しく、すべてが一になってしまう。 

- 仏教の「有無中道の思想」について。「有」を否定して「無」を説くが、しかしその「無」にもとらわれては行けないので「有」「無」を離れた「中道」を重視する思想。

- スピノザ『エチカ』の定理三 受動と言う感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。

- 悲観について。悲しみの受動は、私たちの力能の最も低い度合いを表している。悲しみは、自らの能動的な活動力能から切り離された状態、最大限に自己疎外され、迷信的妄想や圧制者のまやかしに捉えられた状態である。「エチカ」は必然的に喜びの倫理でなければならない。喜びしか意味を持たないし、喜びしか残らないからだ。ただ喜びだけが私たちを能動に、能動的活動の至福に近づかせてくれる。ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』

- 孔子が言う。「書(書き言葉)は言(話し言葉)を尽くさない。言は意(意図、意味)を尽くさない」

莊子の言葉
- そもそも仁義は人の性であるが、人の性は変化するものであり、古今同じではない。

-論争の正誤判断について(略)これは「弁」が是非を決定し得ないことを明らかにしたものであると述べていた。

- 世の人々が道だとして尊ぶものは書である。しかし書は語られたことに過ぎない。語られたことの中に尊ぶべきものがある。語られたことの中の尊ぶべきものは意である。そして意には、出どころがある。意の出どころは、言語によって伝達することができない。ところが、世の人々は言を尊ぼうとして書を伝えている。世の人々がいくら尊ぼうとも、私はやはり尊ぶに足りないと思う。彼らの尊ぶものはあの尊さではないからだ。

- 鶏となって時を告げよ ★これはいつの時代もその時代を生きた人はその時代の考え方を含んでいる。しかし過去の人の考えを知るには過去の人が鶏となって今その時代の考えを伝えていき、未来人が知るしかできない。また鶏というのは今自分が何時なのかという時間(立ち位置)を気付かせる役目も持っている。


■王弼 「周易略例」から得る言語学的学び
意:シニフィエ
象:シニフィアン
言:パロール
- そもそも象は意を表出し、言は象を明らかにする。意を尽くすのに、象に及ぶものはなく、象を尽くすのに、言に及ぶものはない。言は象から生するので、言を尋ねることによって象を見ることができる。象は意から生ずるので、象を尋ねることによって意を見ることができる。意は象によって尽くされるし、象は言によって著される。★ウィトゲンシュタインの言語ゲームと同じ考えと思った。

以上
特に「鶏となって時を告げよ」はとてもいい言葉だと思った。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?