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CwC代表・丹哲郎インタビュー【後編】「たくさんの好き」から作品がうまれる

CwCの代表である丹哲郎のインタビューを、前編・後編に分けてお届けします。後編では、丹が影響を受けた様々なコンテンツの紹介を通して、CwCの作品に通底するテーマや美意識について掘り下げます。(インタビュー・構成/岡本直子)

◇出発点――ジャグリングのもつ情緒
 僕がジャグリングで舞台作品を作り始める原点になったのは、Wes Pedenというジャグラーの映像作品です。高校の頃から現代アートへの漠然とした憧れはあったんです。大学に入ってコンテンポラリーダンスを始めてから、「モダンアートの手法をジャグリングに適用できないか」ということを具体的に考えるようになりました。ここでいうモダンアートっていうのは、「芸術の手法自体を批評的に捉えて作品を作る」くらいの意味ですね。    

 ジャグリングにおけるそれって何だろう? ということをしばらく模索していたんです。そんな時に、Wes Pedenの『Synthetic』という作品が、その手法をわかりやすく、しかもかっこよく見せてくれた。

Wes Peden『Synthetic』(トレイラー)
https://www.youtube.com/watch?v=1mFVPMLebcc


 僕が衝撃を受けたポイントは二つ。一つは、ジャグリングの動き自体がもつ「情緒」というものに気が付いたことです。作中のワンシーンに、スウェーデンの街中で、夕焼けの赤がほぼ青に変わりつつあるくらいの空の下で、Wesがずーっとクラブジャグリングをやりながら歩いていくっていう箇所があります(トレイラーの0:40~0:41頃)。背景には『My Own Strange Path』っていう曲が流れてて、空は暗くなってきて、周りに大勢の人が通り過ぎていく。その中でWesが一人淡々とジャグリングを続けている。「これ、すげえな」と思いました。なんか哀愁があるんですよ。この作品を見る前から、僕は常々、「ジャグリングしている人のひたむきな横顔って美しいな」と思っていたのですが、そのひたむきさって、切なさでもあるよな、と。


 もう一つは、ジャグリングの道具を「落とす」(ドロップ)ことの捉え方。普通、ジャグラーが道具を落とすことは「失敗」とみなされるわけですが、『Synthetic』では、道具をブワーッとたくさん投げ上げてそのまま落とす、というのをやっていました。それがすごく面白かったので、僕が振付を始めた2012年から2013年頃は、ドロップをテーマにした作品をたくさん作りました。積み木をたくさん投げて床中にぶちまけたり、陶器でジャグリングして落として割ったりとか……(笑)。

 この「落ちる」っていうのも、ちょっと寂しげな感じがあるじゃないですか。「あ、落ちちゃった……」みたいな。それも、ジャグリングの情緒の一種だと思います。

◇喪失という主題なくなったものを思う
 というわけで、僕の作品のベースには、元々「切なさ」や「寂しさ」というものがありました。CwCの第4回公演『呼吸する街、ないはずの家』(2014年10月)の頃から、それをさらに一歩進めて、「不在」や「喪失」をテーマにした作品を作るようになりました。


『呼吸する街、ないはずの家』は、鴻上尚史の戯曲『ファントム・ペイン』の冒頭から着想を得て作った作品です。「ファントム・ペイン」とは、手や足を切断した患者が、なくなったはずの手先や爪先に痛みを感じる、「幻肢痛」という症状のことなんですが、これをヒントに、「街の幻肢」というテーマで作ったのが『呼吸する街…』です。

鴻上尚史『ファントム・ペイン』(冒頭部分)
http://www.thirdstage.com/dsbt/phantompain/index.html


「街の幻肢」っていうのは、たとえば、久しぶりに地元に帰省したら、昔よく行ってた近所の駄菓子屋さんが駐車場になってた、みたいな話です。自分はてっきり駄菓子屋があると思って行ったのに、「あれ、駐車場じゃん」っていう。昔からよく行っていた場所が無くなっていたら、すごい違和感がある。それっていわば、ファントム・ペインみたいなものなんじゃないかと。


 それ以降、僕は『ミス・ユー・オール』『たくさんの喪失について』という「喪失」をテーマにした作品を立て続けに作りました。なぜここまで「喪失」にこだわっていたかというと、実はこの頃、4年くらい前の失恋をずっと引きずってたんですよ。失恋から立ち直れない中で、「失うことに美しさを見出す」という歪んだ性癖を持つようになったという(笑)。だから正直、ジャグリングはあんまり関係なくて、そういう個人的な背景で作品を作っていました。これはあんまり言いたくなかったんですけど……。

◇都市伝説―解き明かされない謎
 もう一つ、『呼吸する街、ないはずの家』から登場するようになったモチーフが「都市伝説」です。僕、都市伝説が好きで、2ちゃんねるのオカルト板とかをよく見ていたんですよ。都市伝説って、ファンタジーの一種だけど、完全な異世界で繰り広げられるんじゃなくて、日常の中に変なものが紛れ込んでくる、って話じゃないですか。そこが面白い。僕が特に好きなのが、2ちゃんねるで読んだ「ローシュタインの回廊」という話です。

5ちゃんねるオカルト板・師匠シリーズ『ローシュタインの回廊』
https://fumibako.com/kowai/story/series/shisho_28.html


「ローシュタインの回廊」とは何かというと、4人の人が暗い部屋の四隅に立って、1人が隣の人のところまで歩いて行って、隣の人に触ったら止まる。で、触られた人はまたその隣の人のところに歩いていく。これを繰り返すと、最後は出発した角には誰もいなくなるはずなんだけど、なぜかそれをやり続けられてしまうっていう都市伝説です。つまり、4人だったはずなのに、5人になっていると。この2ちゃんねるの話だと、主人公と仲間たちの身にその現象が起こるのですが、実はズルをしていた人がいたことがわかって、怪現象は一応解決されます。でも最後に「この儀式は、実はその場にいない5人目を呼び出す儀式ではなく、その場にいた5人目を消す儀式だったんじゃないか」「そういえば、4人で乗るにはこの車大きすぎないか?」みたいな感じで終わるんですよ。ドキっとしますよね。この話は「師匠シリーズ」っていう連作短編の一話なんですけど、このシリーズは毎回、この話みたいに、怪現象をいったんは解決するけど、「だとしても1個謎が残る」みたいな感じで終わるんですよ。


 そもそも都市伝説って、自分が住んでる街なのにわからないことがあるから生まれるわけですよね。さっきの駄菓子屋が駐車場になっていたっていう話も、「現実の地図と、自分の頭の中の地図の間に狂いが生じた」というふうに言い換えられると思うんです。日常の中にふと不気味さが忍び込んでくる感じ、普通だと思っていたものがちょっとずつおかしくなっていく感じ。こういうものへの憧れがあって、その後の作品にもそういう要素を取り入れています。

◇「役割が変化する」――ジャグラーの発想の面白さ
 冒頭で、僕が最初に影響を受けた作品としてWes Pedenの『Synthetic』を挙げました。同じくWes PedenがJay Gilliganというジャグラーと作った『Shoebox Tour』という動画にも強い影響を受けています。『Shoebox Tour』は、旅先の色んな場所でジャグリングをするというのがすごくよくて、僕もこういう雰囲気の作品が作りたいなあと思いました。『Synthetic』と『Shoebox Tour』が僕の出発点ですね。この2作は、モダンアートっぽい手法をジャグリングに適用できることを示してくれたっていうのが、本当に大きかった。平たく言うと、「ジャグリングも結構いけてるアートじゃん?」って思わせてくれたってことです。

Wes Peden『Shoebox Tour』https://www.youtube.com/watch?v=uEVf__plZ30 


『Shoebox Tour』で特によかったのが、木枠を使ったジャグリングのシーンです(動画の10:45頃~と15:45頃~)。木枠があれば、当然そこにお客さんの視線を集めることができるじゃないですか。でもそれだけじゃなくて、木枠自体を回したりくぐり抜けたりして、ジャグリングの道具として扱うこともできる。一つの木枠でこんなに色々な使い方ができるんだということに、ものすごく驚きました。


 僕にとってジャグリングの何が面白いかというと、「役割が変化する」ということ。木枠を色々な用途で使うっていうのもその一種です。ジャグラーの動きについても同じことが言えます。道具を操るために必然的にしている動きが、自然とダンスみたいになっていることがある。たとえば、ボールを投げて、落ちてきたボールを受け止めるために脚を曲げて体を屈めると、両脚の間にスペースができるから、そのスペースから腕を通してまたボールを投げる……みたいな。


 ジャグラーは、技を考えるにあたって独特の発想術のようなものを持っているので、普通のダンサーでは思いつかないような斬新な動きが結果的にできてしまう、ということがしばしばあります。CwCの公演に出演するジャグラーの多くはダンス経験がありませんが、それはハンディにはならないと僕は思っています。むしろ、ジャグラーだからこそできるダンスがあるのではないか、と。そういった、ジャグラーの発想の面白さを色々な形で活かした作品を作りたいと思っています。

◇ジャグリングと朗読
 CwCには、詩の朗読(ポエトリーリーディング)を取り入れた作品がいくつかあります。僕が個人的にポエトリーリーディングが好きだったという事情もあるんですが、ジャグリングと朗読って、リズムの相性がわりとよくて、合わせやすいんです。朗読は音楽と違って、大局的な音の流れがなくて、言葉がポンポン出てくる感じじゃないですか。ジャグリングは「投げる」とかの単発の動きが自由に入れられるから、朗読のリズムと細かく合わせていくことができるんじゃないかな、と。これがダンスだと、連続的な動きが中心だから、細かく合わせることができなくて、なんとなく全体のグルーヴに合わせるという程度になりがちなんですよね。

不可思議/wonderboy『生きる』https://www.youtube.com/watch?v=HdS_AkLIsyM


 それから、ポエトリーリーディングの境遇も、ジャグリングと結構似ていると思うんです。ジャンルとしてまだ若いっていうこともそうだし、さっき言った「役割が変わる」っていうところも似ていて。ポエトリーリーディングって、文学とヒップホップと演劇の交差点くらいの感じなんですよ。パフォーマーによって、文学寄りの人もいるし、ヒップホップ寄りの人もいるし、演劇寄りの人もいる。それを自由自在に行き来している感じが好きで。だから、同じく自由自在なジャグリングと組み合わせたら楽しいかなと思って、やりました。


 一回やってみたら評判がよかったので、その後の作品でも多用するようになりました。ちなみに、ポエトリーリーディングとジャグリングを組み合わせたのは、自分の功績だと思ってます。普段はめっちゃいろんな人の作品をパクってますけど、これだけは誰のパクりでもないです(笑)。

ポエトリーリーディング『生きる』を使った丹のパフォーマンス
https://www.youtube.com/watch?v=yKzsrbsYgdk

◇異なるものを重ね合わせる演出
 作品を作るにあたって、異なるもの同士を「重ね合わせる」とか、「併置する」「つなげる」っていう演出手法がすごく好きなんです。色々な作品からヒントを得ています。その一つが『わが星』という演劇作品です。宇宙の誕生から地球の滅亡までを描いた話なんですけど、地球が「ちいちゃん」という子供に擬人化されてて、その家族の日常生活と宇宙の歴史が重なって話が進んでいきます。「宇宙」と「家族」っていう、一見とてつもなく離れていて、直接接続できそうにないことを重ね合わせているっていうのがいいんですよ。

柴幸男『わが星』(戯曲全文)http://mamagoto.org/project/


 それからたとえば、雪舟えま、という歌人の作品で、「たこ焼き屋の手さばきガラスにくっついて見ている 恋がかなわないの」という短歌があります。「たこ焼き屋」と「恋」って、傍から見たら全然つながりがわからないじゃないですか。でも、逆にわからないからこそ、「この人にとってはそれってすごく切実なんだろうな」っていうことが伝わって、胸を打つんです。

雪舟えま『たんぽるぽる』https://tankakenkyu.shop-pro.jp/?pid=149907752


 CwCの作品でも、一見つながらないもの同士を重ね合わせるとか、併置するということをよくやっています。たとえば、「プロジェクター」と「人間」とかもそうです。プロジェクターで写している映像と、ジャグリングをやっている人間の間には交流はないんだけど、その二つがただ並んでいる光景が美しかったりするんです。「一見つながらないAとBを重ね合わせる」というと、まあ極論、何でもありというか、適当なものを併置することもできるんですけど、そこで何と何を選ぶかっていうのは、作り手のカラーが出てくるわけじゃないですか。


 たまに「難しくてわかりませんでした」みたいな感想をいただくことがあるんですけど、この「重ね合わせ」とかは、そのつながりが一見してわからなくて当然なんです。それでも僕は、自分が直感的にビビッときたつながりの美しさっていうのを、一つの光景として表現したくて、舞台を作っています。だからお客さんにも、「AとBってつながっているんだ。私にはわからないけど、この人にとってはそうなんだ。それがつながるのはなぜだろう?」みたいに、色々と想像しながら見てもらえると嬉しいです。


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