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いじめを乗り越えた障がい者の私が、自分を好きになれた話

Ⅰ. はじめに

「普通ってなんだろう。」
幾億回も私が思ったことだ。

このnoteを読んでくれたあなたなら、この疑問をどう捉え、どう返すだろうか。

私が答えるならば、それは「わからない」だと、最近ようやく気付いた。

私は今17歳で今年18歳になる高校2年生だ。

あなたは今、18歳で高校2年生?と思ったかもしれない。

「普通」に行けば高校3年生でしょう、と思ったかもしれない。

そう、その「普通」。
普通ってなんだろう。
私が普通という概念に執着するようになった経緯を話せば、それは私の幼少期、もっと言えば私がこの世界に生を受けた瞬間まで遡る。

Ⅱ. 「普通」じゃない私

私は生まれつき、脳室周囲白質軟化症(PVL)という、脳性麻痺に起因する障がいがある。

簡単に言えば、脳の一部が機能しないことによる身体障がいだ。

階段は、手すりや誰かの手がないと登れない。
段の高さによっては介助があっても登りづらい。

長い時間歩けない。立てない。
走るのも遅い。
皆と同じように移動できない。

握力も弱く、鉄棒もうんていも出来ない。

片足立ちもできない。
そもそも足に力が入らない。

プールや海でも、浅い所でしか泳げない。

ひとりでは満足に移動もできない。

今挙げたこと以外にも、まだまだ私にはできないことがたくさんある。

産まれた時からわたしは足りないものだらけだ、と、物心ついた時から思っていた。

幼稚園に入る頃には、短下肢装具という、
ふくらはぎ辺りまでを覆う靴のような補助器具を着け始めていた。
私は短下肢装具(以下: 装具)を着けていたことを、
着け始めた当時からあまり良くは思えていなかった。

いくら自分の足を支える物といえど、装具は明らかに他の靴とは違って目立つので、他人の目が気になっていた。

特に、幼稚園〜小学校時代は、周りの幼さ故の好奇の目がとても辛かった(勿論当時は私も幼いのだが)。

小学校に入ると、やはりその装具と、周りと同じペースで移動したり、同じメニューで体育ができないことに目をつけられ、クラスの男子生徒のほぼ全員と、女子生徒の一部からのいじめに遭った。

小学1年〜3年までは、主に身体的ないじめだった。
叩かれたり、蹴られたり、持ち物を目の前で奪われて、返して貰えなくなったこともあった。
それはまだいい方で、学校の玄関の階段から突き飛ばされ、コンクリートに激突した時もあった。

体育の時間、ある男子生徒に、装具めがけて石を投げられ、その石が当たって装具が壊れたこともあった。

装具を着けていることは、悪いことなのか。
そうも思った。

小学4年からは、言葉による精神的ないじめに変わった。
4年生に進級する際にクラスに転校してきた、ある男子生徒に目をつけられたのだ。

そのクラスメイトと私が出逢ったその日から、私の人生は、最低最悪の方向へ狂いだすことになる。

Ⅲ. 言葉の毒

前述した転校生は、自己紹介を終えて、自由時間になり、他のクラスメイトと交流を始め、すると突然私の足をまじまじと見つめてきた。

「それ、何?なんでこんなの着けてんの?」
「あ、えっと……、生まれつき足に障がいがあって……」
「………不幸自慢?」

ボソリと呟かれた言葉。
一瞬、私の中で時間が止まった。
凍りついた、と言った方が感覚的には正しいかもしれない。

ただその一言だけを呟いた彼は、スタスタと、興味無さげに去っていった。

そして次の日から、じわじわと、いじめが加速した。

私が教室に登校すれば、クラスメイトのほとんどは大騒ぎ。

「○○(私の名前)が来た!」
「○○菌が伝染る、俺も障がい者になっちゃう」

善意で隣の席の子の落とした消しゴムを拾えば、
「うわ、菌がついた」
としかめっ面をされ、

私が使ったあとの掃除用具は、
「うわ、これ○○が使ってたよ」
「まじか、これは次から使わない」
と危険物扱い。

席替えは一番の地獄で、
クラスメイトは口々に
「○○の隣になったら嫌だ」
と言い、
私の隣になった子は、
「うわ、ご愁傷さま〜」
と笑ってはやし立てられる。

「障がい者は普通のクラスに来るなよ」
「特別学級にでも行っとけよ」
「さっさと死ねばいいのに」。

私が言われてきた言葉は数多もあるが、その中で、特にもこれら三つの暴言は、今も忘れられず、夢に出るほど、私の心に猛毒と後遺症を残していった。

教師も見て見ぬふり、いくら相談しても「照れ隠しで意地悪してるのよ」の一点張り。

挙句の果てに、「あなたは自分の足に甘えすぎ」
「あなたはこんな身体に産んだお母さんを恨んでいるでしょう」と何故か私が罵られる始末だった。

違う。私はママのことを恨んでなんかない。
違う。私は、ただ苦しいだけ。辛いだけ。

頭の中を、教師とクラスメイトが吐き出した、数々の猛毒が駆けずり回った。

「死ね」
「消えろ」
そんな言葉を浴びせられる毎日で、
自分が生きる意味も消滅した気がした。

どこから狂ったんだっけな、私の人生。

そう思いながら、毎日自ら命を絶つ方法を探していた。

存在を否定される言葉を言われる度、
ああ、いっそこいつらの目の前で飛び降りてしまおうか、と何度も教室のベランダの前で立ちすくんだ。

けれど、駄目だった。

直下の地面に身体が打ち付けられる痛みを想像しただけで、とても柵を乗り越えられる気はしなかった。

それならまだ暴言を吐かれ、雑菌扱いされ、差別される方がマシだった。

この柵を乗り越えられる勇気さえ有れば、
私は死んでも、あいつらの記憶の中で生き続けて、あいつらを呪えたというのに、できなかった。

こうして死にきれないうちに、いじめはエスカレートしていった。

宿題用のノートを投げつけられたり、ぐちゃぐちゃに破られたり、持ち物にも被害は及んだ。

そのうちに心のブレーカーが落ちた。
いや、ぶっ壊れた、と言った方が正しいか。

クラスメイトに何をされても、何も感じなくなった。むしろ、自分が変人だから、障がい者だから、こんなことをされているのだと自分を責めるようになった。

暴言を吐かれても、カッターの刃を向けられても、

「私って変人だからさ、私が悪いから」

と笑みを無理やり顔に張りつけた。

どうすれば嫌われないか、という立ち回りを夜通し考えた。

何をされても耐え、笑っていたが、
それは相当気味の悪い笑みだったのだろう、いじめっ子達も不気味だと言い、さらにまたいじめは悪化した。

それでも担任は、ことを大きくしたくないのか、
ずさんな対応をするか、見て見ぬふりを決め込んでいた。

卒業式もひとりぼっちだったが、両親に悟られないよう笑顔を取り繕った。

「6年生、俺らのクラスは最高!みんな大好き!」

ある男子生徒が言った。

何が、みんな大好き、だ。
私のことは最初から無かったのか、と今になっては思えるが、既に心が全壊していた当時の私は、もう何も感じなかったし、思わなかった。

そんな日々が続いて、中学1年生になったが、
それでも状況は変わらないままだった。

そしてついに中学1年の7月、体調不良で泣いた勢いで親に全てを打ち明け、私は不登校となる。

Ⅳ. 教師不信

こうして不登校になったものの、
当然学校としてはそのままにしておけない事態だ。家に中学の担任と学年主任が訪ねてきて、
事情聴取が始まり、後日、形ばかりの学年集会が開かれた。

担任をはじめ、様々な教師に
「ガツンと叱ったからもう大丈夫、学校においで」と言われたが、正直納得はいかなかった。

1回叱ったくらいで私の苦しみが晴れるとでも思ったのだろうか?

そう思うだけで教室に行く気は一瞬で失せた。

一度、教室に無理やり連れていかれたこともあったが、クラスメイトの目は冷ややかだった。

教師が離れた隙に、男子生徒に放たれた一言。
「あ、○○さんまだ生きてたんだ、死んだのかと思った」

教師も生徒もみんな嘘つきだ、嘘つきなんだ。
そう確信した私は、もう二度と教室には行かなかった。

いくら優しい言葉をかけられたって、もう誰も信じないと、心に誓った。

今まで、心が麻痺して後回しにされていた辛さが、ツケになって返ってきた。

7年分の苦しみに押しつぶされて、何度も泣いていた。

Ⅴ. 「普通って何なの?」 

学校に行けない間、過去を何度も振り返った。

どうして、生まれつきの、どうしようもないことだけで、虐げられなければいけなかったのか。

小学校の教師は「普通になりなさい」と言い、
いじめっ子の生徒は、「お前は普通じゃない」
と言う。

じゃあ、あんたらの言う普通って何なの?
運動ができること?装具をつけていないこと?

普通じゃないと駄目なの?
普通でなければ虐げられるの?

普通、という概念が私を縛り始めた。
訳がわからなくなってきて、考えるのをやめて、
思考を放棄して眠る日々だった。

月日が流れて、精神科に入院したり、全日制の高校に入って、また教室に行けなくなっても、ずっと「普通」について考えていた。

だが、全日制の高校で教室に行けなくなった時、
手を差し伸べてくれた人物が居た。

いつも早退する時に早退届を提出する、副校長先生だった。

Ⅵ. 生きているだけで

副校長先生に、「最近、早退が多いな。教室に行けないなら、別室に来てみないか。」と言われ、私は別室で副校長先生に話を聞いてもらう日々が始まった。

副校長先生はとてもフレンドリーで、いつもにこにこしている先生だった。

私の地元の市から少し離れた通信制の高校に9年勤めていた経歴があり、副校長先生は、勉強だけでなく、通信制のことも教えてくれた。

もちろん授業扱いでは無いので、それは単位にはならなかったが、副校長先生はとても気さくで、親に言えない本音でも言えたので、私にとっては正直、授業より大事な時間だった。

ある日、私は先生に、
「私は障がい者だし、役立たずだし、普通じゃない、将来社会に出られる気がしない」という旨を喋った。

喋っているうち、悔しくて、やるせなくて、
ぽろぽろと涙がこぼれて、
私は先生の前で初めて涙を見せた。

すると先生は笑って、
「○○さんは出来ることがたくさんある」
と沢山わたしの長所を挙げてくれた。

「○○さんは文才がある。語彙力と文の構成の仕方は、大人よりも凄い」

それだけではなかった。
「俺は、○○さんはすごい人間だと思う。だけど、あなたは自分ではそう思っていないかもしれない。仮に、あなたが何も出来ない人間だったとしても、あなたがそこにいるだけで、生きているだけで、救われる人は沢山いるんだ」

そう言った真剣な眼差しで、泣いている私の方を見た。

でも、と私が言いかけるその前に、
先生は、
「俺だってそのひとりだ。○○さんがそこにいてくれるだけで救われてる。教師をやってて良かった、と思える。それに、担任の○○先生も、あなたの家族も、みんなそうだ。あなたは気付いてないかもしれないが、大事な人ってのは、そこにいてくれるだけでいいんだ、あなたが普通じゃなくたっていい、あなた自身に価値がある。」

と、目を伏せて泣きじゃくる私に語りかけてくれた。

その声音は、とても優しかった。

あの時、いじめっ子と教師に言われた言葉を猛毒とするならば、副校長先生の言葉は、どんな病にも効く特効薬だった。

その時初めて、言葉の重みと、普通という概念に縛られなくても良いことにやっと気づけた。

その刹那から、私はやっとで、前を向く準備が出来た。

それと同時に、先生が褒めて下さった「文才」を、自分で否定しないことにした。

自分はそう思っていなくても、間違いなく、先生はそう思っているのだから。

今まで自分は何も出来ないと思っていたけれど、
確かに文章を書くのは楽しいし、好きだ。

ならば、その文章と言葉の力を借りて、私は私の今までに蹴りをつける。そして、副校長先生の言葉に救われたように、今度は私が、誰かを救ってみせる。

決意したのだった。

Ⅶ. さいごに

あれから私は、副校長先生のすすめで、副校長先生が以前勤めていた通信制高校に、1年遅れで転学した。

冒頭で、私は18歳の高校2年生だと紹介したが、こういう理由があったのだ。

転学してから、校内の自分の経験を基に書く作文の大会で、今までのことを書いて、スピーチした。

その作文が、ありがたいことに校内最優秀賞の評価を頂き、県大会に進むことになった。

私は最優秀賞という、自分には勿体ないくらいの評価を頂けただけで満足だったし、県大会では奮わない結果に終わるだろうと、期待はしていなかった。

だが、それもなんの奇跡か、県大会で第2位相当の賞を頂いた。

その連絡を通信制の担任の先生から頂いた時、
私は電話口で危うく泣き崩れそうになった。

ああ、今までのことは決して無駄じゃなかった。
そして、普通じゃなくても良かったんだ。

副校長先生が、あの時言って下さった通り。

私はそれから、自分の書く文章に自信を持てるようになった。自分を好きになれた。

だからこうして、今もnoteに書いている。
(中学の転校や、精神科への入院のことなど、泣く泣く端折った所はあったが)
正直、この文章は勝手な独白のつもりで書いたので、乱文だが、それでも私は、この記事を読んでくれたあなたに伝えたい。

何を以て普通か、なんて、最初から誰も分からない。

普通じゃなくたって、何も悪くなんてないのだ。

そして、自分が世界のはみ出し者だと思っていても構わない。

何も無いと思っていた私が、文章という道を見つけたように、必ず、あなたにも才があるから。

仮にそれがなくたって、生きているだけで、あなたは誰かを救っている。

副校長先生の受け売りだけれど、私も最近そうだ、と気づけた。

そして、生きていく中で、傷ついた自分も、糧になると気づけた。だから、私はこの苦しかった経験を、無かったことにはしたくない。

私にしか語れない思いと、経験があるから。
私は私が、大好きだ!

この文章も、この先の未来で私が書く文章も、
少しでも誰かの元へ届いて、
少しでも誰かの救いになれますように。

そう願って、私は文章を書き続けると誓う。

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