才能には反骨心を覚えるしかないのかもしれない

蜜蜂と遠雷で描かれる縦軸の一つに「才能」というテーマがある。

才能と寄り添いながら生きてきた人と、努力を続けて才能を勝ち取った人と、生まれながらにして原石のような才能を持った人とがコンクールで出会い、共鳴する。
蜜蜂と遠雷の映画の中でも、特にそのシーンが印象深い。

海辺の砂浜で、先に挙げた三人がリズムをつけながらけんけんぱをする、そのリズムは何の歌か、という遊びをしている。それを大人二人が丘の上で眺めながら、同じコンクールに出場していた一人が「俺にもあれは分からない」と口にする。

ここに明確な線引きがされていた気がする。

自分も例外なく凡人であるから、「分からない」という意見に賛同してしまう。と同時に、音楽経験もない自分は見知らぬ世界に対する反骨心を覚えた。分かりやすく言うと滑稽に思えた。

ここにもう一つ、何も知らない視聴者に対する線が引かれたのだろう。

分からないものに蓋をする。知らないことに対して自分の尺度で測ろうとする。これではどちらが滑稽か考えたくもない。

基本的に、自分は新しいものに対して寛容でいたいと思うし、考えれば分かるものに対してはそうしてきたつもり。

ただ今回、映画を見た自分に対して嫌悪感を覚えた。天才の矜持に対して自分の尺度で測ろうとした。自分が嫌いな人間に、本能的になっていたということである。

これがタイトルにも書いたように、才能には反骨心を覚えるしかないという自分なりの結論である。

そんな人間が、天才の苦悩や葛藤に共感しようなんておこがましい。人間として一つ上の人たちが悩みもがいている様子を画面上で傍観しているという立場で十分である。

ただそんな中で、一つだけ光明が見えたのがこの映画のずるいところだと思う。

この天才達が共鳴するきっかけとなったものが、丘の上で「俺には分からない」と口にしたピアニストが作曲した伴奏であった。

そのピアニストはコンクールの年齢制限ギリギリで、家族を二人を抱える地に足のついた大人であるのだが、そんな境遇にいるからこそ奏でられる音楽があるということを信じて作曲をした。
結果として、その人の音楽が天才の心を動かし、共鳴したもう一人の天才が導かれるように出会った。

凡人は決して主人公ではないし、特筆すべき魅力があるわけでもない。しかし、それを理解した上で自分なりの音楽を奏でようとする姿勢が天才の心を動かすのであれば、それは一筋の光明と呼べるのではないだろうか。

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