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信念には追い付いてくれない三日坊主

訳あって、頭の中にある無数の言葉を吐き出そうと思いつくままにnoteを綴ることにしていた。最低でも週に2回というノルマ付きで。
それからだいたい半月が経って、今の頭の中は空っぽである。

あれだけ脳内の言葉が渦を巻いていたのに、整理整頓して文字起こしをすれば大した話ではなかったと気付く。
それ自体は良かった事として受け止めていいと思う。その証拠に、今は久しぶりに頭がスッキリしている。

しかしそうなると、もうノルマを乗り越えるだけの余力が残っていない。
ヨルシカの爆弾魔を聞きながら文章を書き殴っていた半月前の自分はなんだったんだろうか。

そしてこういう俯瞰の目が入れば、いよいよ三日坊主の方程式に当てはまる。

信念と言えるほどの何かを代償にしていた訳ではないのだが、自分の自制のなさがここまでだとは思わなかった。

まあ正直めんどくさくなってきたし、別に誰かに向けていたものではないので、今後は更新したい時にすることにします。


ただ、こういう思考回路になったからこそ見えてくるものもある。

文章に救われた、という意見は昔からよく聞く。

例えば、居場所のない引きこもりがちな子供が唯一心躍らせられるもの、それが文章であり、その中で自己陶酔を重ねる主人公の日進月歩に胸を打たれた。
みたいな話はよくある。

ただ、自分は何不自由なく大人になったので、何かしらに拠り所を求めたことが一度もないと思う。本当にゴキゲンな人間だと思う。

それが社会人になって、積もり積もった鬱憤の晴らし方も分からず燻っていた頃もあった。そんな中で、文章を呑み込むのではなく、文章を吐き出すということの快感を覚えてからは確かに視界が開けている。

100均で買ったボールペンで書き殴ったデタラメな文章20行を会社のシュレッダーにかけて快感を覚えていた時期もありましたな。


それから文章をデータに残すようになって、noteに行きついてからは他人の目を気にした文章になった気がする。
要するに、ストレス発散法が上品になっている。

荒削りだった自己否定から、自分と他人との相対評価で否定と肯定をするようになった。
これは多分いい傾向だと思う。

noteを始めてから、少しは大人になれたんですかね。

これも相対評価で決めようと思いますが、今も別に信念を持って生きてはいないです。

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