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自分のなかに芯をもつ

どうあってもいい。

それぞれの生き方だから、、
ぜんぶあっていい。
いろんな概念や生き方やそれぞれの見解。

ただ 健康という観点からいうと、
ストレスなく健やかに生きることは、
心に滞りがないことが大切。

心に滞りがないとは、
現実がどうあっても 自らが幸せであること、その心持ちを選んでいく姿勢のことで、

それは、穴埋めなく生きること、、。


穴埋めをなぜするのか、というと
自分や世界に不足を感じているから。

不足ありき、
問題ありき、の認識を採用しているから。

その概念の採用をやめることは、
不足があるかもしれない自分を赦し受け容れ、その自分を自身で肯定していくことを選択しつづけること、その覚悟や意志を常に持つことが必要。

人生において、それぞれがそれぞれのストーリーを生きていて、他の人には到底わからない、その人だけのものがある。その自分を、自分自身でどれだけ知ろうとするか、それを自分が分かればわかるほど、人生は よりスムーズに 必要なものをくれるようになる。

***以下 引用 

人間関係のなかでくりひろげられる状況のひとつひとつが、そのときに必要な、学ぶべきレッスンをもたらしてくれる。わたしたちは、激流のなかの甌穴に入りこんだ岩石のように、関係のなかで荒い角を磨いている。
人間関係の「ある部分」が変われば幸福になるのにと思うことがある。そうおもうのは、自分を幸福にしてくれる関係を望んでいるからだ。だから、相手を、または関係を変えることができたら、相手も完全な人間になり、自分も幸福になると考える。でも、それはたわごとにすぎない。
幸福は、関係が「よりよい」方向に変わるから生まれるわけではない。じつは、他者を変えることなどできるはずもなく、また、そうしてはならないのだ。では、相手が変わらなかったら?
こう考えてほしい。あなたがほんとうの自分になりたいのなら、相手もほんとうの自分になることをみとめるべきではないだろうか?
人間関係が「だめ」なのではない。また、相手が自分が望んでいるような人間ではないからといって、その相手が「だめ」だというわけでもない。あらゆる関係は互恵的な関係であり、自己を相手に投影する関係である。似たものが似たものを惹きつけるように、わたしたちは自己の内部にあるものに惹きつけられるのだ。

ライフレッスン  エリザベス・キュブラーロス 角川文庫


「こう考えてほしい。あなたがほんとうの自分になりたいのなら、相手もほんとうの自分になることをみとめるべきではないだろうか?」
とあったけど、
これを心底できるためには、

自分を赦してないと難しい。
自分を赦すことは、相手を赦すこと。

ここが、後の
「あらゆる関係は 互恵的な関係であり、自己を相手に投影する関係である」という部分。

相手を通して、常に自分を知りつづけるのだ。


だから、
愛する勇気とか言われるんだけど、この場合の愛は、もちろんロマンティック♡なものを言っているのではなくて、

***以下 引用

愛は、人生という経験のなかでただひとつの真実であり、永続するただひとつのものである。
愛とは、恐れと対極にあるもの。つながりの本質、創造の核心、力の美しい部分、自己が自己であるためのもっとも微妙な部分である。
それは、幸福の源泉であり、われわれとわれわれの内部にあるいのちとを結ぶエネルギーである。
愛は知識、教育、権力とはなんのかかわりもない。愛は行動をこえるものであり、人生においてただひとつの、失われることのない天与のものである。つまるところ愛は、真にあたえることのできる唯一のものなのだ。この虚妄の世界、夢幻の世界、空虚な世界において、愛は真実の源泉になる。

ライフレッスン エリザベス・キュブラーロス角川文庫

愛を選ぶのは、本当の意味でしなやかに強くないとできないかもしれない。

自分の中に確固たる芯や指針をもって生きることだから。

自分を赦し、相手を赦し、出来事のすべてを 幻なく みること。そして、ほんとうの自分の方向へ その事実を使うこと。自分から生まれるすべての気持ちを自分を知ることへ向けていくこと。

自分を知れば知るほど、
人生は安定するし、現実は扱いやすくなる。

自分にも、人にも、優しく 無理のない、自然の流れのなかで スルスルとスムーズに 生きられるようになる。それは、自分の内部の軋轢がなくなっていくからだと思う。滞りというか、隔たりというか、自分で自分を塞き止めているもの。

その正体とは、怒りとして現れることが多いのだが、過去のうけた傷が自分のなかにあり それを教えてくれるものだ。


怒りとは、うけた傷に対して自分がなんの対処もしていないことを知らせるシグナルである。傷をためこみ、それを注意を向けないでおくと、怒りは成長する。わたしたちは たくさんの傷をためこみ、やがて傷の分類ができなくなって、最後には自分に怒りがあることにさえ気づかなくなる。怒りの感情とともに生きることに慣れすぎてしまい、それが自己の一部だとおもいはじめる。つまり、自分をだめな人間、悪い人間だとおもいはじめるのだ。そして、怒りがアイデンティティの一部になる。
処理されない恐れは 怒りに転化する。恐れの感情を無視しているとき、、、あるいは、自分が恐れていることに気づかないとき、、恐れは怒りに転化していく。その怒りにも対処しなければ、それは癇癪になっていく。

ライフレッスン エリザベス・キュブラーロス
角川文庫


われわれは、恐れの扱いよりも怒りの扱いのほうに慣れている。怒りの背後にある恐れに気づき、さらに 自己の内面をみつめて、その恐れの正体を見いだすことは、ほんとうの自分へ向かうために、極めて重要である。

自分の恐れに直面するよりも、怒り続けていたほうが容易なのだが、ほんとうの意味で 自分が向かいたい方向を、そこでよく見極めて、怒り続けるのか、背後の恐れを見いだし、自己の内面を知ることで、内部の矛盾や隔たり、滞りをなくしていくのかは、その都度 選んでいくことができる。

それが、怒りをそのままにしないことであり、ほんとうの自分へ向かうことである。

そのプロセスは簡単ではなく、むしろ苦しい時もあるのだが、その選択を繰り返していくことは、決して自分を裏切らない。

それは、自分のなかに芯や指針をもつことに繋がる。力強く、しなやかに、喜びとともに 生きていく人生となっていく。じんわりじんわりと、人生で起こる出来事のすべてのプロセスをとおして、自分のなかに 確固たるものが出来ていく。

そんな生き方を選び続ける人生は、繁栄しつづけるし、周りに気づきや力を与えることになる。背筋が伸びるような。。

そういう生き方をする人で、私は在りたいなとおもう、、。

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