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ボローニャの秋晴れ

※この記事は「1番近いイタリア2023年秋Autunno」の巻頭エッセイからの抜粋です。

数日前にボローニャに帰ってきた。つい先日までまだ真夏の暑さにうだる日本にいたのが嘘のようで、空高く乾いた涼しい風が木の葉の間を抜け、さわさわと知らぬ顔で音を立てるのが一層淋しい。眩しすぎる朝日に目を覚ます日はもうそこにはなく、目を開けば遠くから陽が差し込むだけだった。季節までもが私を置き去りにしてしまったようで、木の幹に残された蝉の抜殻をみて自分を重ねる。あんなに当たり前の顔をして、疑いもなく輝いていた太陽にも、黒点が広がって光を失う日が来るんだ。そう悟った瞬間、涙が頬を伝う。世界が歪んで、一寸先も見えなかった。白けた秋晴れの日の、夜の闇が怖かった。

600キロ離れたプーリアから私のホストファミリー一家が到着した。車いっぱいに積み込んだ荷物を下ろし、パパ・ヴィトが両手に大きな袋を抱えて3階の私の新居まで上がってきた。いつものようにハグと頬っぺたのキスで挨拶を済ませると、マンマが下でエレベーターを待っているという。このエレベーターは住民の鍵がないと動かないのと説明し、パパに鍵を渡した。上がってくるだけなのに随分時間がかかるなと思った頃、夫婦二人ではぁはぁと階段で上がってきた。なんだエレベーターを使わなかったのかと聞くと、息を整えるなり、「マンマが大きすぎて入らなかったのだ」という。家中が笑いに包まれる。確かにこの建物のエレベーターは後から付け足されたためか、非常に幅が狭い。それにしても入らないことはないのではないかと思いながら、幅オーバーだったということで納得することにした。物事の全てが説明できるわけでもないものだから。

そういえば、このエレベーターには私もやられたのだった。2ヶ月前、最初にこの家に引っ越してきた時の事件を思い出した。このエレベーターは中に入って階数ボタンの隣に鍵を入れ、行き先の階数ボタンをその階に着くまで押し続けなければならないのを知らず、私は鍵を入れて一度3階のボタンを押した。すると、動き出したのは良いものの、次の瞬間、ガクンという音を立てて途中で止まった。何度3階のボタンを押しても動かず、ドアもない中間階で止まったまま、閉じ込められてしまった。パニックになって非常ボタンを押すと、ビービーと非常音が建物中に鳴り響いた。どうしよう、このまま出られなくなってしまったら。蒸し暑く狭い庫内で熱い雫が額に浮かぶ。下でガチャンと扉の音がして、誰かが入ってきた音がした。透明ガラスの壁のエレベーターの中から階段の下を見ると、車から私の引っ越しの荷物を持って再び建物に入るなり、驚いていた顔を浮かべていた。電話をかけ、事情を話すと、首を上げ、空中のエレベータの中に浮かぶ私を見つけ、階段を駆け上がってきた。階段とエレベーター、透明のガラス越しに目が合う。口パクで何かを言う。映画なら「安心しろ、今俺が助けてやるからな」と息を切らして言いそうなものを、「ボタンの上の緊急番号には電話したのか」と冷静な言葉が返ってきた。そんなのもうとっくに電話したわい。そんなこんなで緊急員がいつ来るのかと待っていること数分、音を聞いた住民が出てきて、鍵を入れて2階でエレベーターを呼んでくれ、私は救出された。めでたし、お騒がせな引っ越しは実にイタリアらしい、そして私たちらしい新居初日だった。

マンマは早速持ってきた荷物を開封し始めた。驚いたことに、大きな鞄からは数キロのパスタとビスコッティに、5kgのパン、2袋の小麦粉、牛乳、5Lのオリーブオイル、ミニトマト1パック、チーズが次々と出てきた。「マンマ、パスタならボローニャでも買えるよ」とここまで出かかったけれど、マンマの優しさが嬉しくて、ありがとうと抱きついた。マンマの柔らかいハグに、悲しみが覆っていた心に、安心という光が差すようだった。ガサガサと袋を開け、まるで自分の家のようにナイフとお皿を出してトマトを切っていく。パパと息子たちは「喉が乾いた、水をくれ」というので、私はコップを出したり水を出したり、テーブルを動かしたりバタバタと動き回る。あっという間にテーブルに「パーネ・ポモドーロ」が並ぶ。パンとトマトというその名の通り、パンにトマトを載せ、たっぷりのオリーブオイルとオレガノで仕上げた一品。これ以上ないくらいシンプルな食べ物に、イタリアの貧しさと食への感謝が詰まっている。チーズを載せたって、オレガノがなくたって良い。その日の食材と作り手の気まぐれで出来る、こんな食べ物が好きだった。

パーネ・ポモドーロと言えば、酸っぱいパーネ・ポモドーロを食べさせられたことがあった。もはや初夏とは言えないほど暑く、ボローニャ中の人々が週末を待ち焦がれては、海や川に行った。その日、私たちは川に行くことになっていて、遠いからと朝7時30分に出る予定だった。前の晩、二人とも別々の予定があったから朝集合して行くことになっていたのだが、朝起きて「起きた」とメッセージを送っても既読も返事もない。電話しても出ない。寝坊したなと怒った挙句、9時になってもうんともすんとも言ってこないから、家まで言ってどんな顔して出てくるのかビデオに撮ってやろうと思って、自転車を走らせて5分、家まで行ってインターホンを鳴らした。すると、少しして出てきたのは同居人ディエゴで、寝起きの不機嫌丸出しの顔で奥の部屋に起こしに行った。合わせる顔もなく出てくると、文字通り2分で支度をして、車のエンジンを入れた。怒って口をきかない私の横で、気まずい沈黙に耐えられず音楽を流す。イタリア語の歌が流れる。ふと口を開き「この歌は、可愛い君は、怒った顔がもっと可愛いって歌ってる」と言う。馬鹿か。「笑った顔の方が可愛いに決まってるじゃないか」と答えて、こらえられなくなって笑った。川に着く手前でスーパーに寄り、パンとトマトと生ハムを買った。川におりて日陰に腰を下ろすと、パンを手で切り、トマトを手で潰し、生ハムを挟んでパーネ・ポモドーロを作ってくれた。これで仲直りして、と。目の前で緩やかに流れる小川のせせらぎを聞きながら食べた川床パーネ・ポモドーロは、トマトが熟してなくて、酸っぱかった。

ポー平原を走る。今日はマンマの誕生日をピアチェンツァで祝うため、フランチの運転でボローニャから、モデナ、パルマと平らなポー平原を真っ直ぐに突っ切り、ロンバルディアの一歩手前のピアチェンツァを目指す。いつだってポー平原は美しい。田畑にポツンと現れる元農家の家。卒論でポー川の農家料理について書いた時、こうした家にいくつもお邪魔して話を聞いたのだった。時代が変わった今もこうした家に住み、形を変えて紡がれる生活に思いを馳せているうちに、ピアチェンツァの高速出口に着き、車は街の駐車場に止まった。予約されたレストランに入ると、センスに溢れた内装で、店員の女性は若い人も年配の人もみんなピアチェンツァのアクセントで話し、運ばれてくる料理も手作りの味が心地よかった。52歳になるマンマにプレゼントを渡すと無邪気にピカピカの笑顔で喜び、ぎゅっとハグをし、何枚も写真を撮っては、私の方が上手く撮れるからと言って私のスマホで何枚も写真を撮らせる。はいはいと言いなりに何枚も撮っては送った。本日のプリンセスだから仕方がない。皆、大満足でお店を出ると、お腹がいっぱいだから消化のために歩こうとなった。満場一致だと思いきや、一人マンマだけが強力な拒否権を発動して、このベンチで車を待つという。優しい長男が「分かった。車を取ってくるよ」というと、なし崩し的に皆ベンチでのおしゃべりに切り替わった。北イタリアの地に、南イタリアの風が吹いた。

ポー平原を走る。帰りは電車で一人ボローニャに帰る。いつだってポー平原は美しい。小麦、とうもろこし、米、葡萄、梨、、、移り変わる車窓からの景色に、移り変わる季節が見せる景色を思い出す。霧が初冬を告げる夜、フェラーラからボローニャに帰る道、一寸先も見えない霧の中を躊躇なくハンドルを切る運転手はちょっと頼もしかった。空気さえ凍るような冬、野原を吹く風は刀のように無防備の身を差したのに、ポケットの中は温かかった。ヴェネチアに行く朝、平原の始まりは晴れていたのに途中からみるみる曇って、海抜マイナスのこの地に溜まる湿気が恨めしかった。春を待つ晴れの日、インタビューをした農家さんの夕飯も一緒にどうかという誘いに後ろ髪を引かれつつ、お誕生日に寿司を作るために平原を突っ切って帰ってきた。ジェノヴァまでの長い道、平坦な道を絶好調で走っていた車は、平原の終わりに山に差し掛かると、途端に走りが悪くなった。待ちに待った夏が来ると、バイクの後ろに乗って永遠に続くかと思える一本道をひたすら海を目指した。行きにはよそ見する余裕なんてなかったのに、帰りにはポー平原に沈む夕日が見れて、あの夕日は今もまだ瞼の奥に焼き付いている。この夏最後の日曜日は夜まで海にいて、真っ暗な平原が続く車窓に見飽きた帰りの電車の中では、くだらない手遊びをした。時間はそこで止まっているのに、季節は巡った。夏の名残を残した今日のポー平原はやっぱり美しかった。

ボローニャには今日も秋晴れが広がっていた。家に帰る途中、橋の上から駅を見ると、夕暮れのグラデーションが私の駅を映し出していた。紛れもなく美しい私の駅だった。私が出会い、選び、泣き、迷い、歩く街の駅は、こんなにも美しかった。走り出す列車をみて、ふと口ずさんだ歌がある。「答えは分からない、分かりたくもないのさ。たったひとつ確かなことがあるとするのならば『君は綺麗だ』」秋晴れに吹く風が涙を乾かす日はそう遠くないのかもしれない。

※この記事は「1番近いイタリア2023年秋Autunno」の巻頭エッセイからの抜粋です。

1番近いイタリアについてはこちら

前回のエッセイ「ジェノバの雨」はこちら。


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