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世間とは、自分じゃないか



"世間とは、君じゃないか"
引用:『人間失格』太宰治著


新型コロナ禍で揺れ動く価値観


新型コロナというものが出現したとき

私はまさに学生から新社会人への過渡期だった。


最後にみんなに会えると信じて疑わなかった卒業式が中止となり、

入社前の研修でさえも前日の夜に中止の連絡がきた。


上京して新生活が始まった時も

トイレットペーパーやティッシュにはじまり、

made in China の製品が品薄だった影響で

デスクライトがなかなか買えず、

会社から帰ったら薄暗いワンルームで

晩御飯を食べていたことを思い出す。





就職活動における私の価値観



「価値観」と一括りにしてしまうと把握しづらいけれど、

自分がどういうものに価値を感じるのかを

洗い出すような経験があった。


それは就職活動での「自己分析」


学生の自分が社会と混じり合うタイミング。

それも完全に混じり合うのではなく

マーブル状な感じで。


社会に出て大人になる一歩手前のタイミング。



今まで生きてきた自分はこの世界をどんな風に見て、

周りの色んな人たちからどんな影響を受けて、

それらを全て踏まえた上で、自分はどう生きていきたいのか。


これに対してとりあえずの答えは出さないといけない、

就職活動というのはそんな感じだった。




自分の強みだったり、弱みだったりを客観的に分析して

「やりたいこと」と「できそうなこと」の範囲が

微妙に重なる部分を見つけられれば、まずまず上出来だと思う。



私の場合は

「やりたいこと」と「できそうなこと」の範囲が重ならなかったから、

とりあえず「できそうなこと」の範囲から選ぶことにしていた。



文系の大学院を修了していた私は、新卒といえど

正直に言ってやっぱり心のどこかで

「学部生とは違う」みたいな変なプライドがあった。



そのプライドが 自分でも知らず知らずのうちに

「修士号までいったんだから、みんなから
すごい! って思われるような会社に就職したい」となり、

それが「自分はそういう風に生きていきたい」ことなんだと
強く信じていた。





第一志望の企業に内定をもらったとき



第一志望だった企業から

「この度は厳選なる選考の結果……」というメールが届き

内定が確定した時の気持ちとしては

まず、嬉しかった。


数々のお祈りメールを目の当たりにするたびに落ち込み、

面接を思い返しては

面接官たちの反応や自分の回答への恥ずかしさで

いっぱいになる数ヶ月間は本当にしんどかったから。



でも、今から振り返ると

内定が決まった時の気持ちを厳密に表現したら、

嬉しさ ではなく、安堵 だったと思う。


進路が決まった安堵、

内定がもらえた(面接官たちに認められた)安堵、

就職活動を終えられる安堵。


でもそれ以上に鮮明に覚えている一つの感情がある。

それは

「みんな」に内定を報告する時の自分の気持ち。



自分の実力を認めてもらいたい「みんな」に対するものだった。


第一志望の企業は国際色豊かで

国家機関なども関係する職種だったから

(すごいって思われたくて、そんな業種をあえて選んでいた)

報告したとき、「みんな」は

「すごい! さすが!」となった。


その言葉に鼻を膨らませていた私がいた。


でも実際に上京して、仕事終わりの終電で降り立った最寄り駅から

自分のワンルームまで歩いていたとき

ふと、思った。




……「みんな」って誰だっけ?



そのときにポッと思い出した。

『人間失格』を学生時代に読んだとき

何よりも頭に残ったフレーズを。


"世間とは、君じゃないか"
引用:『人間失格』太宰治著


これは『人間失格』の主人公が

 「世間のみんなはこう言ってたよ」と意見の引用元を大多数の他人に任せて

責任逃れをしつつ、自分の意見を一方的に

押し付けてこようとする友人に対して

放ったフレーズ。


「世間はこう言っている!」の「世間」とは

実際の世間ではなく、

「勝手に君が独自に作り出した世間だろう」

といった意味でもあるかも知れない。



このフレーズを思い出したとき、

いまの私って

自分自身が一番この「君」になってしまってない? と気づいた。



「世間のみんなはたぶんこう言うと思う」と自分の頭のなかで予測する

「世間」とは「君」で、

その「君」とは「自分」だったんだと。


厳密に言うと、それは「自分の価値観」だったんじゃないかなぁと。



今まで25年以上生きてきたなかで

頭に刷り込まれた「みんな」という擬人を自分のなかで勝手に作り出し、

それに対して常に良い顔をしようとする「自分」を作っていたことに

歩きながら気がついた。



その自分のなかの「みんな」を思い浮かべてみたとき、

心のなかに特定の顔は思い浮かばなかった。

それが答えだった。



つまり、漠然とした「みんな」というものに対して

知らず知らずのうちに常に良い顔をしていた。



その良い顔をした毎回の選択一つ一つ、

自分の本心とは異なる選択のちょっとした差異が

まさに今この私の状況を作り上げていたんだ、と。




世間とは自分じゃないか

と思った。



自分が必死に逃げ出したいと感じている会社での日々も

全ては自分のそういう部分が作り上げていたものだったのかもと思った。

でもそこで気がつけたからまだセーフ。



他でもない自分自身が作り上げた「世間」の

存在しない「みんな」に縛られて

勝手に従っていたのは自分だったんだと

そのことに気がつけたから。





就職で変わった私の価値観


「みんな」から見たら順風満帆にみえたであろう(?)

大学院からの "立派な" 就職、

「みんな」が憧れる東京ど真ん中の大企業。



自分には本当にやりたいことがあるのに、それに反してでも

「みんな」からすごい! と思ってもらえるような

安定した現実に価値があると思っていた。



でも「みんな」を軸にして決めてしまった就職先では

心の原動力がなくて

すぐに力が足りなくなってしまった。



そして 新型コロナ禍になり、

地球規模で

今まで世間からすごいと思われていた業種や企業が大きく変わり、

働き方も人との付き合い方も

強制的に見直す現実に私たちは直面することになった。



今までに確固たるものとして信じられてきた「価値観」は

もはや効力がなくなったように思う。


新型コロナ禍で

自分の心に向き合う機会が多くなったことで、


社会的地位や名誉といったものへの価値観が

私のなかではバブルのように弾けて、

何もなくなった真っ白な空間で

自分はどう生きていきたいんだろうと

考えるようになった。


自分にとっての

真の豊かさってなんだろうと。



実際に会社を辞めて、自分で仕事をしながら

それをずっと模索する毎日ではあるけれど

「みんな」に良い顔をして決断したものでは決してなかったなと、

その答えを自分のなかで出せて気づけたこと。

それがまず最初の大きな一歩だった。


世間とは自分じゃないか

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