3時43分
あらすじ
「そういえば今日、会社が死ぬのを見たんです」
酔っ払った水野さんのその発言により、鏑木(かぶらぎ)の酔いは一気に覚めていった。だって、自分も午後に、同じようなことを感じたのだ。
1
「そういえば今日、会社が死ぬのを見たんです」
酔っぱらった水野さんがそう口にした時、僕もかなり酔っぱらっていたと思う。ただあまりにもびっくりして、酔いは一気に引いていった。
「午後、打ち合わせを終え、最寄駅から会社を目指して歩いている時です。会社のビルの屋上付近から、何か巨大なものが降ってくるのが見えました。半透明なそれはゆっくりと落下し、ビルの入り口付近に叩きつけられたかと思うと、すぐにフッと消えてしまいました。おそらくその時、うちの会社は死んだんです。オフィスに戻ると、もう会社は息絶えていました。もちろん他の社員は皆、誰もそのことに気づかず働きつづけていましたが……」
ワザとらしく真面目な調子を作って、水野さんはそう続けた。
僕の心臓はドクドクと音をたてていた。
緊張で喉はカラカラに乾き、唇は鉛のように重い。ただ、ここで発言のタイミングを逃すわけにはいかない。だから僕はなんとか口を動かす。
「あの……偶然かもしれませんが、僕も今日の午後、似たようなことを感じました」
水野さんとは対照的に僕は必死だった。
「午後のある瞬間、以前までの会社にはあった何かが失われてしまったように思えました。それが一体何なのか、それは分からないのですが……」
自分でも呆れる程、僕の話は荒唐無稽だった。ただ、僕の発言により水野さんの体からも酔いが消えていくのがわかった。
「それ、3時43分ですよね」
突然、ずっと黙っていた新田さんが言った。
僕の心臓がさらに大きく波うつ。 ……あの瞬間、ふと、机に置かれたデジタル時計が目に入った。液晶の文字盤には3時43分と表示されていた。
「……確かに、僕がそれを感じたのは3時43分でした」
僕の声は震えていた。水野さんにいたっては、まるでドッペルゲンガーを目撃した人間のような顔で新田さんを見つめている。
「私は3時43分を境に、会社の『匂い』と『色』が変わったのを感じました。ある種の匂いは消え、赤系統が強くなった。死んだというか、あの時間を境にして、会社は全然別の生き物になった。そんな感じでしょうか」
淡々とした調子で新田さんは言う。
沈黙が訪れた。
何かを言おうにも、言葉がうまく浮かばなかった。仕方なく残ったビールを少し口に含んで、ゆっくりそれを飲み込むと、ゴクリと大きな音がした。
水野さん、新田さん、僕(鏑木(かぶらぎ))の三人は会社の中途入社の同期だった。ただ、同期と言っても入社時期が同じだっため、一緒に研修や就業規則の説明を受けたぐらいで、年齢もばらばら、所属グループも違ったため以後、特別交流があった訳ではなかった。
ところが今日、偶然にも三人の退社タイミングが重なり、僕たちは会社のビルのエントランスでバッタリと出くわした。そして、その偶然に妙にテンションが上がって、そのまま勢いで飲みにいくことになったのだ。
「……正直こういった展開は、全く予想してなかったです。お二人とも僕をからかってませんよね」
水野さんが沈黙を破り、戸惑いを漏らした。
話は事実だが、酔っ払いの戯言として聞き流されるばすだったというのだ。 当然だ。僕だって今日の事を、まさか誰か他人に話すなんて夢にも思っていなかった。
「他人には到底理解されないはずの感覚が、偶然にも我々三人の間では共有できたってしまったってことですね。感じ方はまちまちでしたが、3時43分、会社に何かが起きたことは間違いなさそうですね」
新田さんは的確に状況をまとめ、それから水野さんと僕のグラスにゆっくりとビールを注いだ。未だに戸惑いから抜け出せない僕らとは対照的に、新田さんは少し楽しそうに見えた。
僕の心臓は未だ大きく脈打っていた。
つまり僕は、人生で初めて、自分と同じ人間に出会ったということなのだ。
「水野さんの目撃した『落下物』が鏑木さんが感じた『失われたもの』であり、その消失が原因で会社の色と匂いが変わった。三人の見解をまとめるとこういうことでしょうか。そうなると水野さんが目撃した落下物とは、一体何だったんでしょう?」
新田さんが水野さんにたずねる。
「……分かりません。結構距離があり、半透明だったので。ただ、かなりの大きさがあったように思います」
「なるほど……。しかしなぁ……こんな身近に『同じ人』がいたなんて。偶然か必然か?」と新田さん思わせぶりに言ってから「お二人はいつ頃からですか?」と続けた。
僕は再び緊張で唇が乾くのを感じた。新田さんはまるで自分と同じ誕生日の人を見つけたかのように簡単に言った。少なくとも僕にとって、これは人生最大の出来事なのだ。
「その様子だと鏑木さん『同じ人』に会うのは初めてですか?」
動揺している僕に新田さんが言う。
「……はい」
「なるほど。私の知る限り、この世界には私たちのような人間が一定数存在します」
「本当ですか?!」
「ええ、間違いありません。私は今まで、お二人以外にもそんな人達に会ってきました」
新田さんは今までに五人ほど、同じ能力をもつ人間に会ったことがあるという。そして、その経験を通して、この能力について、少し分かってきたというのだ。能力は早い人で三歳くらいから、遅い人でも十八歳くらいまでにはその発現が確認される。
能力を持つ者は、抽象的な物事の変化(例えば今回のような組織に起こる変化や人の心の変化など)を五感を通して感じとるという。能力は元来どんな人間にも少なからず備わっている。ただ、僕らのような人間はその感度が他人よりずっと高いのだと。
新田さんが自分の能力を自覚したのは小学校の五年生の時だった。ある時、担任の先生の心臓に色がついて見えるようになった。さらにその色は、日によって変わることに気がついた。
そして次第に、心臓の色によってその日の先生の体調や機嫌が分かるようになった。例えば、先生がカミナリを落とす日は、だいたいその色は群青色で、体調も機嫌も悪い日だった。
「鏑木さんの初めてはどんな体験だったんですか?」
新田さんが僕に聞いた。
「高校一年の時、教室で浮遊する『多面体』を見ました」
あれは高校一年の春のことだ。クラスは六月の合唱祭を目指して練習に励んでいた。なかなかまとまらなかったクラスが合唱祭の数日前、初めて一つになったと感じたあの瞬間、僕は教室の天井あたりに八面体の物体が出現するのを見た。
八面体はその後、多少の形態を変化を繰り返しながら三月にクラスが解散するまで教室の天井付近に浮遊し続けた。
「水野さんはいつ頃から?」
ずっと沈黙していた水野さんに新田さんがたずねた。
「私は3歳の時には」
「早い! じゃあ、今では相当能力が進化しているのではないでしょうか? 個人差はありますが、一般的に能力は毎年少しづつ進化するんです」
「はい。なので最近は、自衛のためなるべく感知しないようにしてるんです」
「なるほど、つまり遮断方法を身につけたってことですね」
「はい」
オーバーレシーブ。新田さんはそう説明した。
能力をもつ人の中には能力が発達しすぎた結果、身の回りの変化を感じすぎてしまう人がいるという。事実、世界は変化に溢れていて、中には知るに耐えない変化もある。それらを全て感じ取っていたら、精神がおかしくなってしまう。
新田さんも水野さんも昔はオーバーレシーブに苦しんでいた。ただ、次第にそれを上手く遮断する方法を身につけたという。
それから二人はしばらく遮断方法について話し合っていた。当然、僕にはその話の意味がほとんどわからなかった。話を聞く限り、どうやら二人が変化を捉える頻度は僕よりはるかに多いようだった。
「今後会社はどうなるんでしょうか?」
二人の話が一段落したところで僕は二人にたずねた。
「先程、会社は死んだといいましたが、それは会社が潰れるということではないと思います。売り上げは毎年着実に伸びていますし、ただ、以前までの会社は今日で死んでしまいました。つまり不可逆的な変化が起きたということです。会社が前の状態に戻ることは二度とないと思います」
水野さんがきっぱりと言う。
「まあ、別の生き物になったわけですから、少なくとも色々なことが今までとはだいぶ変わってくるでしょうね」
新田さんは言った。
どうやら二人とも今後の会社が変わって行くという点では異論はないようだった。確かに会社からは何かが失われていた。ただ、僕にはそれによって会社が変わって行くという実感がまだもてなかった。一体水野さんが目撃した落下物とは何だったのか、それを知りたかった。
2
何より風が気持ちよい場所だった。ここの風は、何か特別なんじゃないのか、僕はそう感じた。
二日後の昼休み、僕たちは会社のオフィスがあるビルの屋上に来ていた。前回の飲み会の最後、『水野さんが目撃した落下物は元々屋上に存在していたのではないか』そんな話になって、今度一度みんなで見に行ってみようということになったのだ。
閉鎖されているかもしれないという心配をよそに、屋上は開放されていた。
屋上庭園があるわけでもなく、シックなベンチが完備されているわけでもない。ただ、ここに吹く風がその不足要素をすべて超消しにしているように感じた。
僕らはしばらくそこの風を感じていた。 風が自分の中の不純物を全て吹き飛ばしてくれる。そんな気がした。
「こんなに良い場所があったんですね」
僕はつぶやいた。
「気持ちいいですね」
二人ともそれに同意する。
それからしばらく、各々、気ままに屋上を探索した。
もし落下物が以前ここに存在していたなら、何かしらの痕跡を発見できるかもしれない。僕は乾いた地面を注意深く観察して歩いた。しかし結局、それを見つけることはできなかった。
その日、屋上には僕たちの他に、年配の男性が一人、どこかの会社の制服を着た若い女性が二人。みんな気持ちよさそうに風を感じていた。
「鏑木さん、何か見つかりましたか?」
新田さんが僕に合流してたずねる。
「いえ、何も」
「私もです。水野さんの話では落下物は地面に落ちてすぐに消えてしまったらしいから、痕跡も消えてしまったんですかね」
残念だと言う顔をして新田さんは言った。
それから水野さんが僕たちに合流して、新田さんが水野さんに同じ質問をする。
「水野さんは何かを見つかりましたか?」
「……いえ。ただ、予想した通り、以前ここに落下物が存在していたのは間違いないと思います」
「ほー…… なぜそう思うんですか?」
「うまく言えないのですが、ここにいると前の会社が持っていた『リズム』のようなものを感じるんです」
「『リズム』ですか……」
「すみません。他の表現が思いつきません」
「ふむ。ではそれがここにあったと仮定して、それはなぜここから落下したのでしょう?」
「うーん……会社が死んだから落下したのか、何か他の原因があって落下し、それによって会社も死んだのか」
水野さんは考え込む。
僕は屋上の端に視線を移した。そこには僕の胸ぐらいの高さのフェンスが二重に設置されている。落下物はつまり、あのフェンスを乗り越えたということだ。どうやって? ここの風にあおられ飛ばされたのか。いや、水野さんの話では落下物はかなりの大きさがあったという。そんな大きなものが風に飛ばされるだろうか。僕はもう一度風を感じた。風は相変わらず、すがすがしく心地よかった。
「落下物の印象はどんな感じだったんですか? 良い感じとか。何か、邪悪な感じとか」
僕は水野さんにたずねた。
「……私には良い印象でしたね」
「なるほど」
屋上で風を感じていた先ほどの男性が大きく伸びをして、出口の方へ向かって歩いていく。
どうしてか、実際はそんなことはなかった。ただそんなイメージが突如僕の頭の中に浮かんだ。
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イメージの中でその人は僕らの横を通り過ぎる時、立ち止まり僕たちにお辞儀をした。
そのお辞儀は、まるで何かの儀式の所作のようだった。完成され、洗練された動きだった。
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僕はその人の背中が見えなくなるまでじっとその背中を目つめていた。
「また三人で集まって、時々ここへ来てみるのも楽しそうですね」
僕は冗談半分で提案した。
「すみません。私が一緒にこれるのは今日が最後です。先程、辞表を出してきました。スムーズに進めば来週から有給消化です」
「そうなんですか……」
水野さんの急な発言に僕は言葉つまらせる。
「やはり水野さんにとって、今回会社に起こったことは致命的だったということでしょうか?」
新田さんがたずねる。
「ええ。実は会社が死ぬのを経験するのは今回で二回目なんです。前の会社でも同じようなことがありました。ただ、前回はしばらく会社に残って、今ではそれを少なからず後悔しています」
「なるほど。そうであれば、英断なんじゃないでしょうか」
新田さんが水野さんの背中を押す。
「ありがとうございます」
そう言っている水野さんの顔に一切の迷いはなかった。
結局、辞表は直ぐに受理され、水野さんは翌月会社を辞めていった。
3
水野さんがやめて半年。僕は毎週水曜日の昼に、屋上へ行くことが習慣になっていた。あいかわらずそこで何かを発見することはなかったけれど、屋上で風に吹かれていると、最近頻繁に起こる偏頭痛が少し楽になるように感じた。
あの日を境に確かに会社は変わっていった。新しい部署がいくつか新設され、一方でいくつかの部署は廃止、統合された。中途社員が活発に採用される反面、毎月退職者も多く発生した。 勤怠や残業、経費精算などに関する細かなルールが大幅に変更された。
僕の周りでも少なからず変化が起こった。僕こそ部署やグループの移動はなかったけれど、所属グループのリーダーは交代し、グループには新しく数名が異動してきた。彼らは正に新しい風だった。今までうちのグループにはいないタイプの人間で、彼らの加入によってグループの雰囲気はガラッと変わった。それは、『自分は今までとは全く別の会社で働いているんじゃないか? 』そんな錯覚を覚えるほどだった。
会議や飲み会では会社や組織変更に対しての愚痴を聞くことが増えた。みんなが変化に対して恐怖を覚えているように感じた。
『生産性を上げ、より成長』、そんなキャッチフレーズが掲げられるようになったのも最近のことだった。会社はまさにもう一まわり大きな組織へと成長しようとしているようだった。
変化する会社の中で、僕は戸惑っていた。今の仕事は結局自分がやりたかったことなのか? ここが自分の場所なのか? そんなとりとめのないことが頭に浮かんで、どうしても離れなかった。
「お疲れ様です」
その日、新田さんが屋上で僕を待っていた。
「水曜日に屋上に向かう姿を何度かお見かけして。今日も来るんじゃないかって」
「見られていたんですね」
僕は苦笑いした。
「はい。『家政婦のニッタ』です。鏑木さんはここが相当気に入ったんですね」
「ええ。最近はここに来るのが癒しになってます」
「そう言った場所があるのはよいですね。あれから何か見つかりましたか?」
「いえ。何も」
「そうですか。実は今日、鏑木さんに大切な話があります」
「何ですか? あらたまって」
「事後報告になって申し訳ないのですが、私も今月で会社を退職することになりました」
「えっ……また急ですね」
水野さんの時ほどではないが、やはり僕は少なからずショックを受けた。
「すみません。言うタイミングを逃してました」
「やはり会社が変わったことが原因ですか?」
「いえ、全く関係ありません」
「じゃあ?」
「新しい仕事を始めることになりました」
オーバーレシーブで苦しむ人々にその遮断方法を教える。随分前から同じ能力を持つ知人から誘いを受けていたという。遮断方法は、新田さんや水野さんのように自力で身につけられる人ばかりではなく、その方法を必要としている人が少なからず存在するという。
「もし、鏑木さんがオーバーレシーブに苦しむようになったら、連絡ください。力になれると思います」
「いや、僕にはお二人みたいな力はないですよ」
「そうでしょうか。鏑木さん、最近頭痛を感じませんか?」
「……」
「能力発現からおよそ十年を過ぎた頃、能力が飛躍的に発達する時期があります。他にも、高レベルの能力者との接触によって能力が一気に発達するという話も聞いたことがある。鏑木さんは二つともあてはまっている。とかく、そういった時期は頭痛がひどくなるんです」
「なるほど……今のところ頭痛は特にないですね」
「そうですか……では鏑木さん、私が新しく始める仕事を手伝う気はありませんか?」
「えっ、そのオーバーレシーブの制御方法を教える仕事ですか?」
「はい。『同じ力を持った人』は多い方がいいんです。もちろん、この能力を活かして他のこともやって行きます。今ここでお話しすることはできませんが、私が一緒にやろうとしている主催の「望月」には色々プランがあります。勿論ちゃんとした法人としてやって行きますので、給料も今以上に出せると思います」
「……突然すぎて、すぐにはなんとも……」
「はい、もちろん。ただ、三人で初めて飲んだ時からずっと感じていましたが、鏑木さんには迷いの色が見えます。水野さんや私が退職すると宣言した時、それは顕著に現れてました。鏑木さん自身、転職したものの結局今の仕事に迷いがある状態ではないのでしょうか?」
図星だった。確かに僕は二人に先をこされてしまった。そんな気分だった。
「……怖いですね。能力者は」
「ええ。家政婦ニッタは鋭い洞察力を持っています」
「かなわないな」
「いつでも構いません。少しでもその気になったら、連絡下さい」
そう言って新田さんは新しい会社の名刺をくれた。名刺の表側には太いブロック体の文字で『Now』と書かれていた。
「あ、そうだ」
屋上を去ろうとする新田さんが思い出したように言った。
「水野さん、退職する前に鏑木さんに屋上で何かを見つけたなんて話はしてませんでしたか?」
「特には……どういうことですか?」
「三人で初めて屋上へ行ったあの日、実は水野さんはここで何かを発見していたんじゃないか。最近そんな気がしてならないんです」
「それは落下物の痕跡のことですか?」
「ええ」
「でも、水野さんはそんなことを言ってなかったし、少なくとも僕や新田さんは何も感じませんでしたよね」
「ええ。しかし例えばそれは、水野さんにだけ見えていたのかもしれません」
「どうしてそう思うんでしょうか?」
「うーん、勘ですね。それ以上でもそれ以下でもありません」
新田さんが去った後、僕はしばらくそれについて考えていた。水野さんが何かを発見していたのなら、わざわざそれを隠すことに何の意味があるのだろうか? 僕にはそれが分からなかった。
けれど実際、新田さんの予想は正しかった。そして、僕がそれを知ったのは、それからかなり時が経った後だった。
4
今日の風はより一層気持ち良かった 。
新田さんが会社を去ってそろそろ三ヶ月、あれからさらに会社は変わった。名古屋と京都に新しいオフィスができ、友人の何人かは本社の東京からそちらに転勤になった。本社のオフィスの改装が実施され、会議室が増え、休息スペースが減った。新たなルールが沢山でき、人の出入りは一層激しくなった。
僕の所属部署には顔と名前が一致しない社員が日に日に増えていった。それでも未だに僕は、それが良い変化なのか悪い変化なのか分からなかった。ただ、全てが単純ではいられず、複雑にならざるおえない。そんなように思った。
「ここがお好きですか?」
声をかけてきたその人には見覚えがあった。屋上で何度か見かけたことがある。初めて見かけたのは、そう三人で初めて屋上にやって来たあの時だ。ただ、この人を見かけるたび感じていたが、屋上で見かけるより以前に、自分はこの人と、どこかで会ったことがある。おそらくそれは会社関連の何かであろうが、それをうまく思い出せない。
「はい。風がとっても気持ちよくて」
「まったく。ここの風はいつも楽しそうです」
「……すみません。以前、何かでご一緒させていただきましたよね?」
僕は思い切ってたずねた。
「ええ、鏑木さんに初めてお会いしたのはちょうど二年前です」
驚くことにその人は僕の名前を知っていた。二年前。二年前といえば、ちょうど僕がこの会社に入社した時期に当たる。一体何で一緒だったか? 必死に考えたがやはり、いくら考えても全く思い出せなかった。
「すみません。全く思い出せません」
「無理もないと思います。二年前、本当に少しの時間でしたから。私は月城と申します。お会いしたのは、中途採用の面接の時です」
そこで記憶が一気に蘇った。この人は中途の最終面接の面接官の一人だった人だ。
「失礼しました。その節はお世話になりました」
「いえ。私はほとんど会社にいませんからね。非常勤でしてね」
「なるほど」
「ところで、屋上での探しものは見つかりましたかな?」
当たり前のように月城はさん言った。
僕はまじまじと月城さんを見つめていた。静かな優しい目。ただ、全てを知るような深い目だった。
「……いえ」
「残骸は実は一つだけあったんです。とても小さな種です。でも今はない。風で飛ばされたか。誰かが持っていったか。アレはなかなか貴重な種だったんですよ」
種? 月城さんが何を言っているのか分からなかった。ただ、少なくとも月城さんは僕たちと同じくあの日の変化を感じとった一人であり、ここに存在していたものについても知っている。僕はそう確信した。
「……月城さんはあの日の三時四十三分、会社に何が起きたのかご存知なんですね」
「そうですね……多少は知っていると思います。ただ、分からないことの方が多いかもしれません」
「……よろしければ教えていただけませんか」
「そろそろお昼休みも終わりの時間ですね」
腕時計を見ると時刻は十二時五十七分、確かに時間切れのようだった。
「鏑木さん。よかったら、業務終わりに少しお話ししましょうか。会社裏手の路地に『アンデルセン』という喫茶店があります。そこに七時でどうでしょうか?」
「わかりました」
5
時丁度、僕は『アンデルセン』に入店した。 月城さんは予想通り既に入店し、僕を待っていた。
午後に社員名簿を検索し、月城さんは会社創立メンバーの一人で現在は非常勤の役員をしていることがわかった。流石にそこまで偉い人だと思っていなかったので、僕はかなり緊張していた。
僕が席に着いた時、月城さんはケーキを選んでいた。
「ケーキを食べてからで良いでしょうか?」
月城さんは平社員の僕に対して、相変わらずとても丁寧な口調だった。
「はい。もちろん」
「年寄りのくせにこれだけはやめられません。ここのケーキが大変気に入って、毎回会社に来た時には立ち寄るんです。些細な楽しみです。ただ、それだけで十分人生に潤いが生まれるものです」
僕は無言で頷き、カプチーノと少し迷って、結局、月城さんと同じモンブランを注文した。
「人生観が変わるモンブランです」
月城さんはそう言って微笑んだ。
コーヒーとモンブランが運ばれると、僕はそのカップや皿に目を留めた。それらはどれも一点ものであろう。陶器製のそれらはどれも個性的で深い味わいがあり、同時に清々しさも含まれている。
「いいでしょう」
僕の視線に気がついた月城さんが得意げに言った。
「ええ」
「毎回違うデザインを楽しめます。同じデザインになったことがない」
「すごいですね」
「私がボケて忘れてるだけかもしれませんが」
「はは」
僕はつい笑ってしまった。
モンブランは期待を遥かに上回る美味しさだった。豊かな栗の香りがして、絶品のムースは舌に豊かな響きを残し、一瞬で口の中でとろけた。
静かな時間だった。二人ともしばらく無言でケーキを食べ、コーヒーを飲んでいた。なぜだろうか。ここへ来る前は随分緊張していたはずなのに、月城さんと接していると自然に緊張がほぐれた。
「さて、屋上の続きでしたね 」
ナフキンで丁寧に口を拭き、月城さんは言った。
「すみません、先に一つ教えてください。鏑木さんはあの日の3時43分、何を感じたのでしょうか」
僕はそこであの日の話をした。たまたま三人の帰りが重なり飲みに行ったこと。僕らが共有した感覚について。月城さんはなんども頷き熱心に話を聞いていた。
「やはり実物を目撃したのは水野さんだったんですね……」
月城さんの第一声はそれだった。やはり、月城さんは水野さんのことも知っているようだった。
「少し細かいことですが、『屋上に行ってみよう』と最初に言い出したのは、三人のうちどなただったんでしょうか?」
月城さんんがなぜそんなことを聞くのかわからなかった。
少なくともそれは僕ではない…………二人のうちのどちらだったか?…………『屋上からソレが落ちてきたということは考えられませんか?』そう言ったのは…………そう、新田さんだ。
「新田さんだったと思います」
「なるほど、彼ですか」
月城さん何度か頷き、そのことに思いを巡らしているようだった。
「……それは重要なことなのでしょうか?」
僕は勇気を出してたずねた。
「まあ、場合によってですね。それについてはのちほどお話しします」
「分かりました」
「ここで告白しますと、実は私は入社当初からずっと、君たち三人、つまり鏑木さん、水野さん、新田さんに注目していました」
「やはり、月城さんは二年前の中途面接の時、僕達全員に会っているんですね」
「はい。そうです」
「その時にはもう、僕達が特殊な力を持っていることに気付いていたんですか?」
「いえ。それはごく最近のことです。私が当時三人に注目したのはまったく別の理由からです。バランスの取れた組織を作るため、人を8タイプに分ける私独自の分類法があります。そして鏑木さん達はその分類で『受信者』に当たるんです。『受信者』は非常に貴重でして、私の感覚だと一万人に一人くらいでしょうか。『受信者』の最大の魅力は人がなかなか感じ得ない些細な変化を感じ取れることです。人のこまかな感情の流れや本音、部署やチームのちょっとした雰囲気の変化、そんなものを敏感に感じ取り、それらを整える行動をとる。だから『受信者』は組織には不可欠なんです。それが二年前のあの時期、同時に三人も集まってきてくれた」
「買いかぶりです……そんなことができている自信はありません」
「いいえ。現に君たちはそれぞれのグループでその能力を発揮していたと聞きます。些細な変化、問題を感じ取り、グループ、組織が円滑に活動できるように小さな行動を沢山していた。決して派手ではないが、それは組織にとって大きな助けとなっていた。だから私は、水野さんや新田さんが退職してしまったことは会社にとって大きな痛手だと考えています」
「……」
「さて、落下物について話しましょうか。水野さんが目撃したと言う落下物ですが、あれはうちの会社が創り出した『大樹』』です」
「『大樹』ですか?」
「はい。会社には長らく『大樹』が存在しておりました。正確には会社成立当初に出現した苗木が『大樹』にまで成長し、あのビルの屋上に根をはり生存していたわけです。会社に勤める人、行うサービス、そんな会社に関わる全てが『大樹』を生み出したのだと思います」
会社が生み出した大樹。僕はまた、あの高校の時に見た『八面体』を思い出した。なんで『八面体』だったのか、今でもそれは分からない。ただ、確かにあの『八面体』は僕たちのクラスのなにがしかを、その存在の糧にしていた。だからあれはクラスの解散とともに消えたのだ。
「しかしあの日、『大樹』は倒れました。なんの前踏まれもなく突然です。倒れた『大樹』はフェンスを越え、屋上から落下し、地面に叩きつけられました。ビル全体に大きな音が響きました」
『大樹』が地面に叩きつけられる音、僕には聞こえなかった。水野さんはそれを聞いたのだろうか? 僕は『大樹』がまだ存在していた時の屋上を想像してみた。『大樹』があの屋上の風を受けてその葉を揺らす。おそらくそれは雄大で、荘厳だっただろう。一度それを見てみたかった、そう思った。
「なぜ『大樹』は倒れてしまったのでしょうか?」
僕はたずねた。
「それについて、私もできる限り調べ、ずっと考えてきました。しかし未だに原因はわかっていません。強いて言うなら『時が来た』そういうことなのかもしれません」
「……では、『大樹』の消失は会社にどんな影響を及ぼしたのでしょうか?」
「『大樹』の消失によって会社に関わる全ての人に小さな変化が起こりました。そしてその小さな変化が集まり、大きな変化を生みました。『大樹』があった会社と『大樹』を失った会社、確かにそれらは全然別なものであると思います。ご存知のように会社は今、大きく変わっています。まあ、私たち役員がそれを執行しているわけですが。しかし、この変化は少なくともうちの会社が経験しなくてはいけない一つの段階だと考えています。変化に前向きな人がいる一方、後ろ向きな人も多くいることは知っています。ただ、変化は常にそこにあるものです。人はどんな変化であれ、遅かれ早かれそれに向き合わなくてなりません。そして、変化すると言うことは、ある種の救いなのです」
おかわりのコーヒーが運ばれ、そこで話は小休止した。コーヒーを飲みながら、僕は変化が救いであると言うことについて、自分なりに考えていた。
「鏑木さんには今の会社がどう見えていますか?」
不意に月城さんは言った。
「……とても感覚的な話ですが、会社の平均気温が下がった。そう感じることがあります」
「なるほど……おっしゃる通りですね。どうでしょう。このままここで、仕事を続けられそうですか?」
おそらく月城さんに方便は通じない。だから僕は正直に答えた。
「わかりません。私はただ変化に翻弄されている人間の一人です。入社して
そろそ二年になりますが、未だに今の仕事に関して、迷いを感じることもあります」
「他にやりたい仕事があるのでしょうか?」
「いえ。ただ、最近、新田さんに僕のこの能力を活かせる仕事があるという話を聞いて。何でしょう、どこか心惹かれている自分がいます」
「ほう。それについて少し教えていただけますか」
僕は新田さんが僕の能力が向上しているのではと予想したことと、新田さんに誘われた仕事について話した。
「まず能力の向上についてですが、鏑木さんの能力が今、飛躍的に向上していることは確かかと思います」
「やはりそうなんですね」
「そんな時期は心身共に不安定になります。だからなるべく栄養と睡眠を多く摂るといいでしょう」
「はい」
「次に仕事についてですが、新田さんがやろうとしている仕事は、少なくと『裏の世界』の仕事になると思います。裏というのは裏社会の裏とはまた別の意味です。私たちの能力が捉えているのは、まさにその裏の世界の景色です。表の世界に居ながら裏の世界を眺めている訳ですね。ただ、裏の世界の仕事をするには、裏の世界に行かなくてはなりません。それは表の世界にいながら裏の世界を見るのとは全然違うことです。そして裏の世界に一度行くと、表の世界に戻ることは二度とできません。つまり、ずっと裏の世界で生きて行くことになるのです。それは想像よりはるかに大変なことです。その覚悟が鏑木さんにあるでしょうか? その覚悟が固まらない限り、私はあまりおすすめしません」
話を聞きながら僕は、月城さんが現在すでに裏世界にいて、裏の世界から僕にメッセージを送っている。そんな風うに思えた。
「最後に、『種の話』をしておきましょう」
その話を始めた時、僕は月城さんが今までとはまったくの別人になったように感じた。
「……屋上に残っていた残骸の話ですね」
「はい。先ほど少し話ましたが、大樹は最期に小さな種を残しました。あれは少し特殊な種でして、使い方によっては非常に危険なものなんです。だからはあの日、私はそれを回収するため屋上へ行きました。ただ、安全に回収するためにはそれなりの準備が必要でして、ちょうどそれの準備中、鏑木さん達が屋上にやってきました。ですから回収は日を改めて実施することにしました。ところが、それから二日後。私が次へ屋上へ行った時には、もう種はなくなっていました」
「……誰かが持ち去ったと言うことですか?」
「まあ、そう考えて間違いないでしょう」
「……月城さんは僕達三人の中の誰かがそれを持っていったと」
「はい。それは十分あり得るとと考えています」
「……」
「まあ、鏑木さんでないことはわかっています」
僕は新田さんが水野さんが実は屋上で何かを見つけたかもしれないと言う話を思い出していた。ただそれには何の根拠もなかったし、何だが告げ口するようで、結局その話は月城さんに話さなかった。
十時半、僕たちは『アンデルセン』を出た。いつの間にかそんな時間が経ったのか、月城さんと話していた時間は、あっという間だったように思えた。
「時間の概念はとても曖昧です」
何も言っていないのに、月城さんはそう口にした。
「あとね、『倒木更新』ってこともあるんですよ。覚えておいてください」
別れ際、月城さんはそう言った。
6
月城さんと喫茶店に行ってから二ヶ月が経った。今ではなんだかそれはとても昔のことのように感じた。月城さんにまた会いたい、そう思っても、こちらから月城さんとコンタクトをとることは難しかった。屋上に行く度、僕は月城さんがいないかと探した。けれど以来、月城さんと会うことはなかった。月城さんが役員を退任したという知らせが社内ニュースで通知されたのはそれからさらに一ヶ月後のことだった。
今日、僕はまた屋上へやってきた。
いつものように風が気持ちよい。どうしてか数日前から頭痛がやみ、僕の中にずっと存在していた一瞬の振動のようなものがおさまったようだった。それはとても穏やかな感覚で、僕は毎日仕事を淡々とこなすことができた。仕事が自分に合っているとか、やりがいとか、最近は特別そのことについて意識を向けることが減っているように思えた。
午後の会議の準備のため、少し早めに屋上を出発し、トイレに行く。手を洗おうとして、鏡で自分の姿を見た時、僕はハツと息を飲んだ。
見間違えではない。鏡に映る自分の胸のあたりに僕は小さな薄緑色の物体を発見した。『倒木更新』僕はその時その言葉を思い出した。一体いつからそれはあったのか。それは、生まれたばかりの小さい芽だった。それは弱々しくはあったが、少なくとも生を全うしようとする、力強さに満ち溢れていた。
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