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僕の理性には限界がある

僕の好きな考え方で、人間の理性には限界がある、というものがある。
当たり前のようで、すぐに僕たちはその限界を超えたような顔をして、のうのうと生きてしまうのだ。

これは賢者は謙虚たれ、というような人生訓としての標語などのようなものではない。
人生訓以上の何かを含んでいるとおもう。
そう思わせるきっかけは、僕の人生の中で何度も追体験される、原体験に見出すことができる。

僕は自慢ではないが、小学生の時から要領とノリで大体のことはうまくいくようなガキだった。
だから、抜け道を探してはその抜け道から強引に自分の目的を達成することに悦びを感じていた。
そんな嫌なガキだったころ、学校の先生の前で「歩行者は横断歩道を渡らなければ信号無視にならないから、横断歩道のないところを狙って渡れば早く学校に行ける」という旨の主張をし、実際にわたってみせた。
その時、学校の先生は横断歩道で信号待ちをし、ちゃんと横断歩道をわたり、静かに先に道の反対側で待っていた僕に近づき、一言こういった。

「下級生が真似をして、事故に合うかもしれないからやめなさい」

これは知恵の足りない胸糞悪いガキだった僕には衝撃だった。
確かに、僕はいいかもしれない。
僕の通学時間を1日3分は短縮できるし、つまり、毎日3分長く寝ることができるし、友達に早く会うことだってできる。
でも、下級生もみんな真似をしたら?そんなこと考えたこともなかった。
まだ状況を正確に把握できない1年生が真似をして、車に轢かれでもしたら?その両親はどう思うだろう?僕は自分を責めてしまうかもしれない。
それ以降、僕は誰が見ていなくても歩行者信号を無視したことはないし、わざと信号のある横断歩道まで歩いて、信号待ちをして渡るようにしている。

最近、ひょんなことから「運」と「実力」について考えることがあった。
マイケル・サンデルしかり、社会を維持するためを考えるなら能力主義は最適解ではないというような言説を唱える人たちも増えたことから、僕も考えてみようと思ったのだ。
少し考えたのだが、「運」と「実力」は実は同種のものなのかもしれないとおもう。
僕は高IQで、凝り性なこともあって一定の努力は苦だとは思わない。
愛される体験もモテた体験も一定あり、他人が鼻から僕に対して悪意を向けてくるような妄想を抱いたこともない。
しかし、全く逆の体験を、あるいは遺伝子を持っていたら?
そんな僕は、今の僕のような僕として生きていることはなかっただろう。
どんな「実力」もそれは確率論的環境要素、つまり、「運」に左右されているのだ。
出会った友達がよかった、挫折した時期が最適だった、遺伝的に恵まれた能力を持っていた。
僕の人生で達成できたもの仮にあるとしたら、それは偶然の上に成り立つ「実力」によって達成されたものでしかない。

多かれ少なかれ人はこの「運」の影響を受けて生きているだろう。
今週、君のことをフった彼女は、先週たまたま歳上の男に声をかけられただけなのかもしれない。
僕たちの幸福や不幸さえ、この「運」から自由にはなれないのだ。

では、「運」が悪かったと全ての不幸を受け入れればいいのか。
それは違う。なぜなら、僕たちは人だからだ。
「運」が悪かったと全ての不幸を受け入れていては、「運」ではない不幸さえも納得し、受け入れて生きなければならない。
だから、僕はこうおもう。

自分ができるからといって、なんでもやっちゃダメ。
他の人が真似して不幸になるかもしれないでしょ。

僕が信号を回避しようと悪知恵をはたらかせたとき、担任の先生に言われたあの一言が再び蘇った。
僕には思いつくかもしれないけど、僕にはできるかもしれないけど、僕の理性には限界がある。
他の誰かがしてもできる?他の誰かが失敗したら自分を責めるんじゃない?
だから、他の人はできないかもしれない、他の人が同じことをして傷つくかもしれない。そんなことを考えながら自分の行動を決定しければならないのだと。

僕ができるから君にもできる、は暴力でしかないということだ。
偶然の上に成り立っている自分の成功を法則化し、提供するなどということは愚行でしかない。
そもそも、その法則に従って生きられるための条件がこの世の中には存在しているのだ。
しかも、その条件は言語化不可能。伝えようもないものなのだ。

僕たちは自分にとっていいことを好き勝手くっちゃべってる。
でも、それは誰にとってもいいことであるはずはない。
誰かを、あるいは、誰かの大切な人を不幸にしているかもしれない。
僕の理性には限界がある。
それは人類がこれから豊かな社会を志向するに至って、皆が肝に銘じなければならない真理なのかもしれない。

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