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バレンタインデーから1ヶ月。
当たり前だが昨日はホワイトデーだ。
バレンタインデーの時と同じメンバー、同じ梅田で、休日ランチを。

恒例化するのかな?
そうなれば楽しみが1つ増えるので嬉しいが。
近況を聞かれるも、ここの日記で書いているようなことを答える。
イライラすることがなくなったので穏やかに過ごしていると。
出向先は決算月が12月なので今は期中。
しかし出向元は3月決算なのでまさしく今は期末。
しかも数字も下降気味で、かつ来月から新しいシステムが入るので、本当に大変な時期。
あのまま私が以前のポジションについていたままなら、イライラの度合いもピークに差し掛かっていただろう。
飛ばされたことによる「不幸せ」も経験したが、こうしてそういった大変な時期の半端ないストレスを抱えることなく、桜の開花や野球の結果などを気にする余裕があることはやっぱり人間らしい生活ができ「幸せ」なんだろうなと思う。
本当に冷静に考えてなぜあそこまでシャカリキになっていたのだろうかわからなくなっている。
単に上を目指したかっただけなのだろうか。
もしそうだとしても、今になって思えばそれがそんなに価値のあることなのかなと。
負け犬の遠吠えのように聞こえるかもしれないが、純粋に心からそう思えるようになってきた。
もっともっと大事なことがあるだろうと。
そういう意味では昨日のような、また一昨日のような触れ合いは「幸せ」の極みなのかもしれない。

以前にも書いたかもしれないが…
生存率も低かった太古の時代、ホモ・サピエンスは今のようにあくせくして生きてはいなかった…と思われる。
もちろん、生活のための食料確保が最優先課題であり、それが成し遂げなければ、単純に死んでいただろうし、そうでなくても、病気や怪我をしただけで高い確率で死に至ったのだろう。
そんなことによる命の危険がなくなった現代と単純比較はできないないが、仕事でイライラしまくり心身に支障をきたすような生活はしていなかったとは容易に想像がつく。
原始から古代に向かう中、例えば1万年くらい続いた「縄文時代」は最近の研究では相当豊かな生活を営んでいたことが発見されている。
狩猟採集生活ながら定住していて、おそらく今の定義の「労働」にあてる時間はほんのわずかだったのだろう。 
農耕が始まり、相応に「時間」に制約させられるようになった。
そして300年ほど前に産業革命が起きて、労働力が集約され「時間」に追われ「時間」に拘束される生活が始まった。
そして20年ほど前にIT革命が起きてネットにより「場所」を問わず「時間」に追われるようになった。
1万年続いた生活が「人間らしい生活」と規定するなら、人間はどんどん人間らしくない生活をしていることになる。逆に私の今の生活はほんのわずかであるがそれに近付いたと言えるだろう。
どこを起点に置くかで全く違う議論になろうかと思うが、心の病がこんなに大隆盛になる現代を人間らしい生活スタイルと言えるのかどうかはわからない。
ただ進化を止めることはできないし、またそれを誰も望んでいないだろうから、昔に戻ることもあり得ない。
それに「縄文時代」も続けていくことができない何かの事由が発生したため、その時代は終焉を迎えたのであり、次の時代に進んだのだろう。
時代が進めば進むほど、人間は何かに追い立てられるような生活を強いられている。
時代が進化しながら、それでもゆとりを持てるような生活を取り戻すことがこれからは求められているのだろうと思う。
そしてまさしくそれをほんのわずかに体現できる機会を私は与えてもらったことに感謝している。
こんな生活になるから、なぜあの引きこもっていた時にもっと前向きになれなかったのだろう。そこに関しては後悔する。
いつもいつも新しい職場に入って行く時は「取り越し苦労」をしてしまう。
あの時に「天が与えた転機」だと認識していたことはまさしく正しかったのだろう。
『風の時代』を迎えほぼ3ヶ月。
少しずつだが、そんな生き方ができているような気がする。
そんなことを感じたホワイトデーだった。

まだまだ未熟で、発信内容はブレブレのところもありますが、応援を無駄にしないように頑張ります‼️