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わからない言語で繰り広げられる朗読。意味を見出さなくてもいい、その音を聞くと、わかることがあるから。

静かな感動が全身にわきあがり、魂がふるえる。

その瞬間に聞こえてくるのは、都市部で交わされる忙しいコミュニケーションのための言語ではなく、昔からひっそりと続いていた伝統儀式のあいさつのようでありながら、真実の断片がぽつりぽつりと蛍のような光りを放つ、おだやかで暖かくてやさしい言の葉。ずっとずっと前から憧れていた景色はここにあった、そう確信せずにはいられないほどイタリア語が圧倒的だと感じたのは、コニェッティの朗読を聞いたときのことだった。

2018年11月に開催された「ヨーロッパ文芸フェスティバル」における企画のうちのひとつ、パオロ・コニェッティ著「帰れない山」の朗読トークイベント。イタリアから訪日し著者みずから作品を読み上げるという贅沢な会である。その日までに本の存在を知らなかったわたしは、著書が何者なのかもまったく理解していないまま「イタリア文学の作家のイベントだから参加したい」という単純な動機のもとに、チケットを申し込んだ。

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会場はお客さんで埋め尽くされ、満席状態である。彼の作品に関心を寄せるひとは多かったのだろう。冒頭に短い対談を終えたあと「それでは朗読をお願いします」と司会者が声をかけ、彼が本を手に取る。すうっとちいさく息を吸い込んだとき、会場が真空状態になった気がした。なにひとつ物音が聞こえない。皆が息を飲む。彼の一言目を期待している。読み上げられたイタリア語の響きは静寂をつつみこむ。わたしの耳には、乾いた砂漠に水が浸透するようにゆっくりと、じんわりとしみ込んでいく。

読み上げられたのは都会で生まれ育った主人公ピエトロと、同じくらいの年齢の山に住む少年ブルーノが森の近くで出会うシーンだ。

少年は、名をブルーノ・グリエルミーナといった。グラーナ村の住民はみんなグリエルミーナという名字だけど、ブルーノという名前は俺だけなんだ。そう彼は得意げに説明した。
(…中略)
「川が好きなんだろ?」ブルーノが尋ねた。
「うん」
「泳げるか?」
「少しだけ」
「釣りは?」
「たぶんできない」
「来いよ。いいもの見せてやる」そう言うと、ブルーノは椅子からぴょんと立ちあがった。

大人になる成長期の少年の強がりと背伸びした口調。それらを原語から取りこぼすことなく丁寧に表現する関口英子氏の翻訳の素晴らしさは当然のことながら、会場のスクリーンに映し出される朗読文となめらかにたゆたうコニェッティの声はどこか、低くてかすれている。何かを諦めたような、それでも赦しを与えてくれるような音域。暖炉のあたたかな火のような、すこし灰が混ざったようなコテージの居間で、まるで、こっそりと秘密を打ち明けてくれたような気がした。

呼吸混じりのその音で、会場は二人の少年と小さな村と、鮮やかな山の景色が広がった。正直、この時ほどイタリア語がわからないことを後悔したことはなかった。

わたしがフランス語を学び始めたのは、ケベックやスイスのフランス語圏などフランコフォニー文化に関心があったからで、フランス自体に興味があったわけではない。ご近所のイタリアと比較するならば、はっきりいってイタリアの方が大好きだ。カフェやパスタ、リゾットなどの食文化に限らず、文学はアントニオ・タブッキとかナタリア・ギンズブルグとか近現代のイタリア文学作家を好んで読むし、作品に醸し出される家族意識の強さ、その愛情の深さにはいつもあたたかな拠り所を感じられる。安心感もある。イタリア在住のヤマザキマリ氏や塩野七生氏が語る歴史、文化的背景、イタリア人の生きる様にひとつひとつ感銘をうけるし、何よりも一番イタリアを詳しく教えてくれたのは作家・翻訳家である須賀敦子のエッセイだった。彼女の全集を何度も繰り返し読み続け、ミラノ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、アッシジ。まだ訪れたことがない場所でもイメージだけは彼女の記憶を通じて豊富に浮かび上がるほど、イタリアはどれだけわたしがフランス生活に馴染んで、憧れの場所だった。

ならば言語を習得してフランスではなく、イタリアに行けばよかっただろうと思うかもしれない。しかしわたしは「言語がわからないままでいたい」という、矛盾した気持ちをずっと抱えていた。客観的でありながらその土地を観察する。第三者の立ち位置である方が見えることもあるのではないか。フランスはすでに自分の居場所でもあるし、操れる言語を体得している。どうせならこのままフランス社会の中に全身を使って溶け込んで、そこからの世界も知ってみたい。
意味のわからない言語を、わからないまま聞くという行為も好きなのだろう。外国語をひとつの音として楽しみ、そのなかに含まれる文脈などはまったく意識をせず、まるごと耳の中に入れていく。言葉はコミュニケーションのための道具だから当たり前に意味と意図が宿り、それを通じて親しい人と喜びや悲しみを共有したり、依頼やお願いをしたり、物語を伝えたりするのがいちばんの目的だけれども、意味にがんじがらめになるのではなく、ただ音を楽しむこともあってもいい。内容を知る義務はどこにも、ない。



あらゆるルーツを持った人たちが集まり、複数の言語を日常的に耳にする機会が多い欧州。

爽やかでミントのようなドイツ語の音感、イタリア語が持つ甘くて苦いエスプレッソのようななめらかな複雑さ、鳥のさえずりのように軽やかなスウェーデン語。パズルを解読するような繊細さを抱えたポーランド語、風が吹き時々砂嵐が捲き上るアラビア語、鋭く尖った刃が見え隠れするロシア語・・・どの言語もそれぞれの彩りがあり優劣などつけることはできない。
街を歩いているとき、カフェにいるとき、外国人の友人が母国語の相手と話すとき。その音が近くから聞こえてくると「何を話しているのだろう?」どんなときも、想像する。その瞬間、秘密裏におこなわれた、扉の向こうの会話が繰り広げられる。

言語とは不思議なもので、一定量の語彙と文章構造を習得すればだいたいの内容がわかるようになる。文脈を想像力と推測で意味をおぎなえるし、何かしら解読のヒントを手にするだろう。わたし自身、フランス語とはもう何年も向き合っているからか、地方のイントネーション、表現の違いを感じることはあっても、今となっては全くわからなかった頃の記憶を取り戻すのが難しくなった。この言語の音感を客観的に捉えることも、残念ながらできないと思う。
だとしたら気になるのは、わたしの母国語に関して、他者が持つ印象である。日本語話者ではないひとからすれば、このひらがなとカタカナと漢字が混ざった言語はどのような音に聞こえるのだろう。アニメなどに表現されたものではなくただの何気ない、自然な会話の音感はどんな姿にたとえられようか。日本語をまったく理解しない誰かに、いつか尋ねてみたい。

コニェッティの朗読を聞いてから、ふと眠れない夜などにじぶんが知らない言語、作品の朗読動画を探すようになった。ただ音を流すだけ。好きな音域の声だったら尚更嬉しくて何度も聞き返す。決して意味をわかろうとしなくていい、目を閉じれば見たことのない光景がそこにあるだけ。じぶん勝手に浮かんだストーリー展開と、すぐ消えてなくなってしまう想像。音とともに暗闇のなかに浮かびあがる。

果てしない言葉の世界への扉を前に、どの部屋にはいろうかと思案する。扉の向こうには、いつだって秘密の会話が繰り広げられている。あらゆる扉は開放されていて施錠もされていない。わたしたちは、どこにでもノックをすることなく入ることがきるはずだ。その先にどんな景色が待っているだろう。山小屋の木の温もりを感じられる場所か、あたたかな家族の団欒の食卓か、それとも都会のビルの街並みに囲まれたコンクリートか、雄大な自然を感じられる場所なのか。ふと、作品に登場した山の少年ブルーノの声がした気がした。

「来いよ。いいもの見せてやる」。

扉のすきまから、ひそひそと、誘うような小さな音が聞こえてくる。

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