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【中国山地の歴史⑨】里山の歴史−里山とは何か?−

 中国山地の歴史を調べる人、宍戸です。今回は、中国山地での暮らしと関連の深い言葉である「里山」の歴史について迫ってみたいと思います。
 「里山」という言葉は、広く認知され使われています。近年でも、中国山地を主に扱った「里山資本主義」という本が話題になりました。ところが、「里山」という言葉をどのような意味で使うのかは、人によって異なるように思います。「里山資本主義」でも、「里山」の意味については明確には記されておらず、ざっくり「山あいにある田舎」のような捉え方になっています。むしろ、広く認知されているので、あらためて説明するまでもない言葉という認識なのかもしれません。
 今回の記事は、正しい「里山」の使い方を示すものではありませんが、「里山」の理解を深めるうえで、少しだけでもお役に立てたらうれしいです。

里山の範囲はどこからどこまで?

 まず、「里山」の範囲の捉え方は、大きく分けて2つあります。簡単にいえば「里と山」と「里の山」という違いと言えます。「里山」の範囲に「里」にあたる農地や水辺を含むのかどうかという点で異なります。どちらも「山」は含みます。
 前者については、例えば、田端英雄先生は、「里山林だけでなくそれに隣接する中山間地の水田やため池、用水路、茅場なども含めた景観を里山とよぶ」とし、「里と山」の意味で認識しています。一方で、武内和彦先生は、「里山」を集落周囲の雑木林や採草地といった林地に限定して、農地や水辺を含む場合は「里地」と呼ぶことにするとし、「里の山」の意味で整理しています。また、環境省も「里の山」という解釈をしており、農地や水辺を含む場合は「里地里山」という使い方をしています。

水田は「里山」に含まれる?(筆者撮影)

江戸時代は「里の山」

 歴史的にはどのように使われてきたのでしょうか。「里山」という言葉は、江戸時代には既に存在しており、現時点で知られている最も古い使用例は、1661年の佐賀藩の文書のようです。そして、 所三男先生は、著書において宝暦9年(1759)に筆記された「木曾山雑話」を紹介しており、この雑話の中に「里山」の意味を示す記述がみられます。それによると「里山」とは「村里家居近き山をさして里山と申候」とあり、里の近くにある山のことを意味する言葉であると記されています。つまり、少なくとも、この時点は「里の山」という使い方がなされ、農地や集落といった「里」は含まれていなかったと言えます。

なぜ「里と山」の解釈が生まれた?

 それでは、なぜ現在では「里山」に「里」を含む解釈が存在するのでしょうか。というより、むしろ現在では、こちらの考え方のほうが主流といっても過言ではないように思います。この解釈については、只木先生が「『里山』の文字を分解すれば、田(農地)、土(生産力)、山(森林)となる。その本質が文字の中に隠れていた。」としているように、「里」が含まれることを当然のこととして捉える見解もあります。
 これは、「里山」という言葉が、現代において、どのような意味で再発見されたかということに関係すると考えられます。この言葉は、武内和彦先生が「里山の自然は、自然と人間の共存の結果としての二次的自然」であるとしているように、現在では、人為によって二次的に成立した植生の地域を指す言葉として使用される場合が多いと言えます。
 「里山」を「二次的自然」として解釈すると、「里山」に農地を含む余地が生まれます。1年生草本(稲)が生育する水田や、多年生草本が生育する畦畔草地、長期サイクルで伐採される雑木林・薪炭林など、集落周囲の植生は、人間の利用形態によって管理方法は異なるものの、いずれも「二次的自然」と言えるからです。そして、水田や草地、雑木林などの「二次的自然」は、人間が手を入れ続けることで、それらの状態が維持され、食料や燃料、用材などの人間の生存に必要な資源を持続的にもたらしてきました。
 このことから本来、地理的概念であった「里山」を、人間が手を入れることで持続的に資源をもたらす二次的自然地域として再発見したことが、「里山」に「里」を含む解釈を生んだと、私は考えています。「里山」という言葉は、四手井綱英先生の造語であるという見解もあるのですが、江戸時代と現代では使用方法に断絶があると考えた方がよいのかもしれません。

里山は、人間が手を入れ続けなければ遷移が進み、日本ではやがて全て森林になる(筆者撮影)

「里山」的な土地利用はいつからあるの?

 現在では「里山」という言葉を「二次的自然地域」として捉える見解が主流であるということをご紹介したうえで、それでは、このような「二次的自然地域」としての土地利用、いわゆる「里山」的な土地利用は、いつからあるのかについて考えていきたいと思います。先ほど「里山」という言葉の現時点で知られている最も古い使用例は、1661年と書きましたが、実態としての「里山」的な土地利用は1661年よりはるかに古いと言えます。
 「里山」という言葉は、「里」という人間の定住を前提とする文字を含むので、人間が定住生活を始める以前のことは考えないことにすると、「里山」的な土地利用は定住の開始、すなわち縄文時代まで遡るという見解があります。
 例えば、有岡利幸先生は「里山は、1万年以上前の縄文時代の前期あたりから小規模ながらつくられはじめていた。」としています。また、太田猛彦先生は「森林の利用は、たとえそれがどんなに小規模なものであっても森林に変化を引き起こす。人が定住し、小さいながらも集落をつくるとそのまわりの暗い原生林は明るい森に変わり始める。すなわち、燃料を集めたり、山菜やキノコを採取したり、クリやクルミなどの有用な樹種のみを残したりして小規模ながらも伐採や草刈りが始まると、その跡地には光を好む植物が侵入し樹冠を形成する。」とし、青森県の三内丸山遺跡を例としてあげながら、縄文時代中期の終わりごろには里山化が始まったとしました。

「森林の利用は、たとえそれがどんなに小規模なものであっても森林に変化を引き起こす。」(筆者撮影)

中国山地的「里山」の再発見

 まとめると、二次的自然地域としての「里山」の歴史は、人間の定住の歴史とほぼ同義でもあると言えます。居住地の周囲の自然から恵みを得てきた人間、そして、人間の営為に影響を受けて変化した自然。「里山」は、人間と自然の相互作用によってつくられてきました。
 中国山地は、たたら製鉄に使用する膨大な木炭需要と、なだらかな地形が相まって、広範囲にわたり利用されてきました。前述の有岡利幸先生も「標高1000メートル前後の山が延々と連なる中国山地は、思いがけないほどの山奥にも人が住み、里山となっていた。」と記しているように、ほぼ全域が「里山」であったとさえ言えるのかもしれません。
 近年では、手を入れれば自然資源を持続的にもたらしてくれる「里山」の意義が再評価されるようになってきました。「里山」の利用は、「里山」の環境に適応して生存してきた、多数の動植物の保全にもつながりますし、結果的に人の手がほとんど入っていない原生的な自然(国外を含む)を保全することにもつながります。
 現在の中国山地でみられる、様々な里山利用の活動は、人間と自然の関係をつむぎなおす過程なのだと思います。そして、「里山」という言葉は、現在の中国山地の暮らしの現場で新しい価値が加えられ、今まさに再発見されている途上と言えるのかもしれません。

参考文献

(1)藻谷浩介、NHK広島取材班『里山資本主義』角川書店.2013
(2)田端英雄『里山の自然』保育社.1997
(3)武内和彦、鷲谷いづみ、恒川篤史編『里山の環境学』東京大学出版会.2001
(4)所三男『近世林業史の研究』吉川弘文館.1980
(5)只木良也『新版 森と人間の文化史』NHKブックス.2010
(6)有岡利幸『里山Ⅰ-ものと人間の文化史-』法政大学出版局.2004
(7)太田猛彦『森林飽和』NHKブックス.2012


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