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【中国山地の歴史⑭】中国山地のむらあるきー奥出雲町三沢ー

 こんにちは、中国山地の歴史を調べる人、宍戸です。
 今回は、奥出雲町の三沢を紹介したいと思います。

三沢の主な歴史スポット

 上の地図は、三沢の主な歴史スポットをGISに落として作成した地図です。

 三沢の歴史は、大きく以下の4つに分けられると思っています。

1.出雲国風土記に関わる歴史
2.戦国武将三沢氏に関わる歴史
3.近世から近代にかけての街道に関わる歴史
4.たたら製鉄に関わる歴史

 これから順に説明していきたいと思います。

1.出雲国風土記に関わる歴史

 「三沢」という地名は、西暦733年(天平5)に編纂された出雲国の地誌「出雲国風土記」に登場します。風土記によると、仁多郡は当時、4つの郷があり、三沢郷はそのうちの1つでした。また、風土記に記載される仁多郡の郡司は3人で、長官にあたる大領が蝮部臣、次官にあたる少領が出雲臣、書記にあたる主張が品治部です。このうち、三沢郷を勢力下に置く郡司は、少領の出雲臣であったと考えられています。三沢は古代には既にその名が登場し、重要な神社もあったことから、風土記と関連する歴史的スポットが点在しています。

三沢神社

 出雲国風土記仁多郡の条には神社も記載されているのですが、その筆頭は三沢の社で、神祇官在りとなっています。現在も三沢地区で最も重要な神社です。

三沢神社(筆者撮影)
三沢神社参道(筆者撮影)

三沢池

 「三沢」の地名は、風土記に記載される起源説話によると、大国主命(大穴持命)の御子が泣き止まなかった際に、身を浄めた水が湧き出た地であることが由来とされています。
 三沢池の比定地は、いくつかあるのですが、このうち三沢池は、後程ご紹介する三沢城の境内にあります。

要害山中腹の三沢池(筆者撮影)

三津池

 「三津池」は三沢池のもう一つの比定地です。「三津」となっているのは、実は風土記に書かれている地名が、「澤」なのか「津」なのか議論があり、「三津」とする場合もあるためです。もし「三津」だとした場合、風土記の時代から現在までに地名が変わったことになります。なお、この記事では風土記の時代も「三沢(三澤)」で統一して記述しています。

三津池(筆者撮影)

2.戦国武将三沢氏に関わる歴史

三沢城跡

 中世山陰最大の国人領主として勢力を誇った三沢氏が、嘉元3年(1305)に築いた山城が三沢城です。三沢氏が永正6年(1509)に本拠を同じ仁多郡内の横田藤ヶ瀬城に移すまで、居城として使用されました。中世山陰を代表する山城として島根県指定史跡に指定されています。

写真左手が三沢氏が居城とした要害山(筆者撮影)
三沢城の大手門に残る石垣。(筆者撮影)
三沢氏の墓(筆者撮影)

下鴨倉の建御名方神社

 三沢氏は、もともとは信濃国飯島郷を本拠として飯嶋氏を名乗っていましたが、承久3年(1221)の承久の乱で戦功を挙げたことにより得た三沢の地に来住し、三沢氏を名乗ったとされています。
 飯嶋氏が出雲国に来住した際に祀ったとされるのが、信濃国一宮である諏訪大社の祭神、建御名方神であり、三沢城の付近に建御名方神社が建立されています。このほか、仁多郡内(奥出雲町内)を中心として、かつての三沢氏の勢力圏内には、横田藤ヶ瀬城の付近も含めて「諏訪神社」という名前の神社が点在しており、三沢氏との関連を連想させます。

建御名方神社(筆者撮影)

布広城

 三沢城の近くに、布広氏が本拠とした布広城と呼ばれる山城跡もあります。布広氏は、三沢氏の一族で、三沢氏5代為忠の弟が分家して成立し、三沢氏の家臣の中で最高の禄を受けていました。
 毛利元就が尼子氏討伐のため、永禄5年(1562)に出雲へ侵攻を開始すると、それまで尼子氏の配下だった三沢氏は毛利氏に寝返りましたが、布広氏は尼子方に残り、同郡亀嵩地区の高田にある鍋坂城に拠りました。天正8年(1580)ごろ、三沢氏14代為虎は鍋坂城を攻めて城主布広左京亮を討ち、鍋坂城を廃城としたとされています。

布広城登山口

3.近世から近代にかけての街道に関わる歴史

 江戸時代になると、三沢は宿場町として、また牛馬市が開催される町として賑わいます。
 現在の仁多郡西部では、三沢の近くに三成と呼ばれる市街地があり、三成が地域の中心ですが、江戸時代は三沢の方が栄えていました。

三沢氏が菩提寺とした蔭凉寺から伸びる三沢のまちなみ(筆者撮影)

木次阿井往還の宿場町

 三沢の繁栄を支えたのが街道の存在です。この街道は木次阿井往還と呼ばれ、山陰と山陽を結ぶ重要な街道でした。伊能忠敬や松江藩主も通ったことで知られています。
 しかし、山道を中心として、明治時代以降の道路整備の対象から外れてしまった箇所も多く、現在は主要な街道としての機能を果たしていません。
 下の図は、伊能大図と航空写真をGISで重ねた地図に、街道のルートを赤色で表示しています。街道の一部が現在では森林に埋もれてしまっています。

木次阿井往還の奥出雲町三沢付近(伊能大図と航空写真を重ねて作成し街道を赤色で表示)

 一方で、主要な街道のルートから外れてしまったからこそ、文化遺産が壊されることなく残っていると言うこともできます。かつての木次阿井往還のルートを訪れてみると、往時の雰囲気をよく残しており、地元の方が草刈りなどの整備をされていることもあって、歩きやすくなっています。

木次阿井往還の現況(筆者撮影)
木次阿井往還の現況(筆者撮影)
路傍の経塚(筆者撮影)
路傍の道祖神(筆者撮影)
路傍の山上さん(筆者撮影)
路傍の六地蔵(筆者撮影)
宿場町として栄えた三沢のまちなみ(筆者撮影)
三沢町で夏の夜に開かれるお祭り(筆者撮影)

牛馬市で栄えた町

 もう一つ、江戸時代以降の三沢の町の歴史で欠かせないのが、牛馬市です。享保2年(1717)の記録によると、仁多郡内では、横田、三沢、亀嵩の三町に牛馬市が立っており、栄えていたようです。
 牛馬市の名残として、現在の三沢町の通りの縁石には、牛馬市を開催した際に牛馬を繋ぎとめるために使用した金輪が残っています。以前はもっとたくさんあったようですが、徐々に少なくなり、写真の金輪が最後の1つとなっています。

三沢町の通りの縁石に残る牛馬を繋ぎとめるための金輪(筆者撮影)

4.たたら製鉄に関わる歴史

 三沢には、仁多郡(奥出雲町)で非常に栄えた、伝統的製鉄技術たたら製鉄にまつわる歴史もたくさん残っています。戦国武将三沢氏も、製鉄が生み出す富によって力をつけたともされています。 

田部大吉鑪操業拾年記念碑

 三沢のたたら製鉄に関わる近代の痕跡に、田部大吉鑪操業拾年記念碑があります。この記念碑は、たたら製鉄の経営者であった、現在の雲南市吉田を本拠とする田部家が、大吉鈩を操業して10年経過したことを記念して設置され、碑文には「大正五年九月二十三日 田部大吉鑪創業満拾年記念 山内中」と記載されています。
 三沢の大吉地区での鈩操業は、田部家が初めてなのかというと、そうではなく、少なくとも元文2年(1737)には、田部家と同じくたたら製鉄の経営者であった、現在の奥出雲町上阿井を本拠とする櫻井家による経営が始まり、その後、経営者を変えながら断続的に操業され、最終的に鉄師田部家の経営となりました。
 幕末の開港以降、たたら製鉄は長期的に衰退していきます。明治40年になると田部家は、いよいよたたら製鉄の事業規模の縮小を決断し、多数の鈩が廃業となりますが、大吉鈩と菅谷鈩の2つの鈩は残されました。
 石碑が建立された大正5年(1916)は、たたら製鉄が衰退する中でも一時的に鉄の需要が増大し、活況を呈した年です。ちょうど節目の操業10年であったことから、記念として鈩の労働に従事する人々によって建立されたのでしょう。雲南市吉田の菅谷鈩と同じく、田部家のたたら製鉄の最終章を伝える石碑です。

三沢の大吉地区に残る田部大吉鑪操業拾年記念碑(筆者撮影)

上鴨倉の金屋子神社

 三沢では、製鉄の原料となる砂鉄を採取するための「鉄穴流し」も盛んに行われていました。三沢の上鴨倉にも鉄穴流しの跡地が残存しているのですが、こうした砂鉄を採取した方々を含め製鉄に関わる方々に信仰されていたのが、金屋子神社です。
 かつて鉄穴流しが行われ、現在は畑となっている鉄穴流し跡地の付近に、現在も金屋子神社がひっそりと祀られています。

上鴨倉の金屋子神社(筆者撮影)

 以上、奥出雲町三沢の歴史スポットをご紹介してきました。長くなりすぎるため、代表的な箇所だけご紹介しています。三沢地区も、中国山地の他の地区と同様、人口減少と高齢化が進んでいますが、近年では若手による地域活動も活発に行われています。ぜひ一度、足を運んでみてください!

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