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向いていない

働くのに向いていない。

致命的に向いていない。まず朝起きるのが苦手だ。私の会社は10時始業なので、一般的には遅いほうだが、それでも8時半にアラームが鳴ると、小脇に抱えたイルカのぬいぐるみを殴り散らかさないと気が済まない。目が覚めた瞬間、「今日はもうダメだ」という気がしている。

いっそ世界が終わってしまえばいい。世界が終わらなくても、会社が誰も傷つかないかたちで爆破されればいい。地下鉄の職員は待遇に満足しているだろうか。もっとストライキを開催して、電車を止めたほうがいいのではないか。無症状のまま新型コロナウイルスの陽性反応が出ないだろうか。毎朝、絶望がループする。

本を作る仕事をしている。「好きなことを仕事にできていいね」とよく言われる。確かに私は本が好きだ。しかし、あくまで本を読むのが好きなのだ。本を作るのが好きなのではない。

本を作る仕事には、様々な面倒事が含まれる。人見知りなのに次に作る本について、えらい人の前でプレゼンしなければならない。したらしたで「それ、何が面白いの?」「売れるの?」「役に立つの?」という、おじさんたちからの矢継ぎ早の質問と吟味に、アワアワと泡を食いながら答えなければならない。おじさんたちに、女の好きなものについて、痛みについて、呪いについて、語らなければならない。父親も元彼も理解しなかったことを、最近知り合ったばかりのおじさんたちに説明する。面倒だ。

作家に原稿を催促する。実は原稿というのは、締め切りを設定するだけではダメで、催促しないと来ない。大半の作家は、締め切りを守らない。なので編集者は、毎日いろいろな作家に催促している。催促はルーティンワークのひとつだ。今日も催促し、明日も催促する。

なお作家に催促しても、返事が来るとは限らない。

原稿を脇においやり、Twitterでレスバする先生。締め切りも打ち合わせも忘れている先生。「本当の締め切り」を勝手に設定して茶をしばいている先生。いろいろいる。

編集者は「待つ」ことも仕事である。中には「だから、待たせても構わない」と開き直っている作家もいる。だから催促し続ける。それでも、今日も原稿が来ない。

大きな出来事があると、繊細な作家たちのメンタルが落ち込み、SNSが荒れ、また原稿が来なくなる。ロシアはウクライナに侵攻するな。政治家は差別的な発言をするな。誰も事件を起こすな。私の担当の原稿が遅れる。

そして親愛なる読者のみなさん。作家は全員、エゴサをしています。だから、一文字たりとも悪口を書くな。彼らは表現者などという厄介な仕事を自ら選んでおきながら、100人中たった1人の批判で、「もう書けない」と言い出します。その話を喫茶店で2時間聞くのも、私たちの仕事です。なおその間、当然ですが、原稿は来ません。

締切を破る作家なんて人間の風上にもおけない。人間失格だ。今すぐ筆を折れ。さもなくば原稿を送れ。あなたは私に一度、謝れば済むかもしれないが、私はデザイナーと印刷所と会社の上司に3回謝っている。その分の菓子折りを寄越せ。このように言えたらどんなに清々しいだろうか。

しかし私は、編集者であると同時に、書き手でもある。書き手になった途端、それまでの苦労は忘れて、平気で締め切りを破る。なんなら締め切り自体を忘れる。催促のメールも見なかったことにして、Twitterを開く。

編集者の自分を軽視する作家は許せないが、他社の編集者にはひたすら迷惑をかけ続けている。毎日のように催促メールを送っているが、やってくる催促メールは無視している。二重人格かもしれない。自分が怖い。働くのに向いていない。

編集者の仕事は作家の相手だけではない。

印刷所とデザイナーの喧嘩を仲裁する。私を通してではなくいっそ直接やりやってくれないか。すぐ箔を押したがるな。表紙に穴を開けるな。やたらと高い紙を使うな。俺のエクセルシートが、予算管理が崩壊する。ちなみにデザイナーさんも漏れなくフリーランスなので、作家同様、催促が必要である。ウケる。

課長、今から50万円の予算削減は無理です。初版10万部の企画ですか? 錬金術? そんなものができたら、今すぐ仕事を辞めて家で寝ています。

家のソファーで寝転びながら本を読むのが好きな人間が、このような人間関係の調整と雑用を好むだろうか。日々自分のやっていることが正気の沙汰とは思えない。では、好んでこんな職に就くべきではなかったのか。そうもいかない。残念ながら、このような苦労はどんな職種についたところで発生する、あまりにありふれたものだ。

この仕事が特別悪いのではない。仕事とは大抵が面倒な雑用であるし、程度の差はあれ、大変さは変わらない。しかし、食うには働かなければならぬ。そのため仕方なく働いている。ただ、なんであっても、働くことに向いていない。

ほかに向いていることがあるだろうか。働く以外の何か。そう思ってあたりを見渡すと、ますます自信がなくなってくる。

仕事から帰ってきた同居人が、部屋の中をせわしなく歩き回っている。洗濯機を回しながら、床を掃除し、食器を洗い、ゲームをし、入浴し、就寝準備をし、本を読んでいる。意味不明だ。同じ屋根の下にはいるが、違う時空間を生きているとしか思えない。

その間、私は、人がダメになるクッションから1ミリたりとも動いていない。

同居人が、ゲームの世界に没入している数時間、私は微動だにしない。微動だにしないだけでなく、本当に何もしていない。ただ虚空を見つめて、ぼんやりしている。気が付くと、あっという間に時間が過ぎている。怖い。その間に同居人は、ネットゲームの世界ランカーになったそうだ。怖い。

年間数百冊の漫画を読むという同居人から、この世のあらゆる傑作が終結した素晴らしいKindleを貸し与えられた。数千冊の漫画データが詰まっている。しかし預かったその月以降、Kindleの電源を入れていない。同居して半年ほど経って、同居人はしみじみとこう言った。「あなたは、普段、本当に何もしないんだね」。

まずい。生きるのにも向いていない可能性がある。非常によろしくない展開だ。

資本主義社会が駆り立てる「生産性」への過剰な希求に逆らって、資本主義のその後を考えるなどしてお茶を濁したいところだ。しかし、こんなぐうたら私の生活を支えるものこそ、7&iホールディングスであり、ユニクロであり、Amazonであり、つまり資本主義の権化たちである。この論は筋が悪い。

「生きる」も「働く」も、まともに取り組んだことがない。しかしあえて後ろめたく思う必要もない気がする。私は何も自ら生まれることを選択したわけではない。両親は私を産むことを選択したかもしれないが、それは何ら私の責任ではない。望んで生まれてきたわけではないのだ。明日死なないだけで、2兆円もらえてしかるべきである。

犬は犬として生まれたことに、猫は猫として生まれたことに価値がある。ならばヒト科ヒト属ダラシガナイとして生まれたことに、罪はあるだろうか。こちらだって頼んでこの世に生を受けたわけではないのだ。

目の前にある、誤植だらけのゲラ。なんだか気持ち悪いので、1ページだけやったら寝よう。明日、仕事を辞めたっていい。ここまでお膳立てしたのだから、きっと誰かがうまいこと引き継いでくれる。だからあと1ページだけ、付き合うのだ。これまでも、これからも、すべてが成り行きでなし崩し。それがきっと私のなれの果てなのだから。

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