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後期資本主義社会で我々はいかに生き延びることができるのか/『透明社会』『疲労社会』書評

著者のビンチョル・ハンの名前を見聞きしたことがない、という読者も多いであろう。それもそのはず、今回取り上げる2冊は著者の初めての邦訳書である。しかし、この2冊で指摘されるのは、わたしたちにとってあまりに馴染み深い現象ばかりである。

『透明社会』において著者は、あらゆる場面において透明性が要求される社会を批判する。ここでいう「透明性」とは、行政における汚職や情報公開、人権擁護の文脈で求められる透明性を指しているのではないようである。問題とされているのは、「透明性」がイデオロギーとして個人の生のあらゆる場面に入り込み、「透明社会」が「管理社会」へ転化される点だ。特に興味深い指摘は、「他者性」の喪失であろう。大量の情報とコミュニケーションと資本を循環させ、加速させていく現代においては、あらゆる事物が商品化される「展示社会」である。このような社会においては、「ただそこにあるだけ」のものにはなんの価値もない。こうしてあらゆるものが「展示」された結果、内密の空間は徹底的に排除される。「最後に打ち明けられるなにか」を失い、他者性への尊重という繊細さを失った人間は、他者と自己の境界を失い、同一性を反復し続けることになる。

本書を引用したフェミニズムコミック『21世紀の恋愛:いちばん赤い薔薇が咲く』(リーヴ・ストロームクヴィスト著/よこのなな訳・花伝社)においては、この同一性の反復という後期資本主義社会の自己愛を、何歳になっても常に26歳前後の水着モデルをとっかえひっかえして交際するレオナルド・デカプリオを引き合いに風刺していた。もっとも、これほどまでにマッチング・アプリとSNSが普及し、無限に他者の生活とステータスを垣間見ながら、商品化された他者と「マッチング」することが目指されている昨今、デカプリオを完全に他人事として一笑に付すことも難しい。新型コロナウィルスの感染拡大によって、他者との出会いの契機が失われている今、他者性の喪失と自己愛の肥大という状況はさらに加速しているといえる。「視界に空白がない愛とはポルノグラフィである。」(15頁)

また、『疲労社会』では、「規律社会」から「能力社会」への移行の中で過剰に活動的になった人間の疲弊と燃え尽きが描かれる。「規律社会」とは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で提示した、監獄・精神病院・兵舎・工場・学校などの近代的施設の中で、人々が秩序維持のための規律訓練を受けることで、生産性を高め、服従と従属を受け入れていく社会のことである。このような「規律社会」を著者は「否定性の社会」と呼ぶ。「○○するな」というかたちで人々の行動が規定されるからだ。それに対して、筆者は現代の「能力社会」を「〇〇すべき」・「〇〇できる」というかたちで人々の行動が規定される「肯定性の社会」だという。「能力社会」においては、フィットネスジムやオフィス、ショッピングモールにおいて、わたしたちは常に「できないことなど何もない」というメッセージを受け取りながら、最高のパフィーマンスをあげなければ、業績を誰かに見せなければ、と駆り立てられる。「規律社会」において生み出されたのは「正常でないもの」=「狂人」であったが、「能力社会」で生み出されるのは自己をモチベートできない人間=無能力者とうつ病患者である。

このように、人々が自ら生産性を高めるための行動に走り、自己搾取を止められない社会については2022年1月7日に単行本が刊行された、芥川賞作家・遠野遥の初の長編作『教育』(河出書房新社)においても、象徴的に描かれている。「学校」という「規律社会」の代表ともいえる舞台装置で、教師や職員室のような“体制側”の存在感が希薄である一方で、生徒が自ら成績向上のために、フィットネスジムに通い、互いが互いの業績を監視しながら秩序を強化していく姿が描かれるのは、まさに「能力社会」的な新規性に溢れている。ここでの白眉は、業績を上げなければと駆り立てられることで、過剰に自己への関心が高まった生徒たちが、かつて青春の、すなわち自我の確立に重要な役割を果たすと考えられていた恋愛や性愛の場面においても、他者への関心を失い、他者の喪失という経験すら喪失してしまうという絶望である。『疲労社会』においても、悲しみに暮れる人は、失われた対象を志向しているという意味では、依然として他者のもとにいるが、後期近代の自我は、欲動のエネルギーのほとんどを自分自身に使用するため、欲動は簡単に他の対象を見つけることができる、すなわち長く深い悲しみに暮れる「喪の仕事」は最早不要である、と指摘されている。

このように、あまりにも他者との関わりに希望を見いだせない後期資本主義社会において、我々がいかなるかたちで生き延びることができるのか、いずれの書籍も指針は示してはいない。今後、あらゆる書き手が挑戦するであろう新しい物語に引き続き注目していきたい。



*図書新聞2022年3月5日号から転載

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