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もはや「理解」は求めない

15年ほど前だった。都内の、とあるお店の隅っこで、わたしは一人の友人と出会った。

彼女はわたしと同じ高校生で、なのにすべてがわたしとは違っていた。髪がふわふわ長くて、アイロンでしっかり手入れされていた。胸が大きくて、垂れ目が愛くるしくて、素敵なガールフレンドがいた。

その日、彼女は、わたしに彼女のガールフレンドを紹介した。

彼女さんはショートカットで、背が高くて男前で、滅多に笑わない年上の人だった。たしか専門学校生だったように思う。やっぱりボーイッシュな人がモテるのかなぁ。女っぽくも男っぽくもなりきれない自分が恨めしかった。そして、彼女たちの関係が眩しかった。

「はるちんも、かわいいからすぐに彼女できるよー」

当時LGBTという言葉は、ほとんどないに等しい状態だった。私たちが出会ったお店は、女性同士が出会うことを目的として開かれた場所だった。地下の、薄暗く、高校生にも酒類を提供することを厭わない、何重もの意味で「アンダーグラウンド」な空間だった。私は、思春期を迎えて、男性にも女性にも性的に惹かれる感覚を自覚しながら、あえて女性同士の秘密の関係に、クローゼットに閉じこもる勇気がなかった。

その数ヶ月後、彼女はガールフレンドと共に、心中することを選んだ。

当時、いじめによる中高生の自殺が社会問題化していたが、彼女たちの遺書には、「学校生活にはなんの不満もない」とあった。校長先生が記者会見を行い、オフレコでなんらかの事情を説明し、遺族も「学校の皆さんには仲良くしていただいてとても感謝している。どうかそっとしておいてほしい」と述べたことから、周囲の同級生には次の日からごく平穏な日常が与えられた。

今でもふと思うことがある。

もし彼女たちが15年後の今、高校生だったら、同じ決断をしただろうか。



私自身の話を少し書く。

数年前、結婚を考えるほどではあったパートナーに「ポリアモリー(※1)」をカミングアウトしたところ、LINEをブロックされ、音信不通となり、別れた。

私はこれからどんなに勉強しても、どんなに稼いでも、どんなに納税しても、「マトモな」人生には一生ありつけないのだという気がした。世界に居場所がないように思えた。

最近、ポリアモリーについて紹介する番組が放送される度に、ポリアモリーに対する罵詈雑言がSNS上にあふれるようになった。

人間は社会的動物である。自らのルールのみによって生きるわけではない。社会のルールに適応するために、それがたとえ自分のルールと反していても、規範を内面化することで外の世界に適応しようとする。

「唯一無二の一人の人と一生添い遂げてこそ一人前」「とっかえひっかえ違う人と寝るなんて気持ち悪い」「都合のいい関係」「二番目の女は幸せになれない」「ビョーキ」

これらの言葉はすべて「異性愛の一夫一妻制を堅持するものこそ社会の成員である。それ以外はクズ」という規範として集約され、己の心の中に響いてくる。人間にとって集団に帰属できないことは、すなわち「死」を意味する。社会的な死に耐えられるほど、肉体が強いとは限らない。

その内とも外ともわからない声はやがて宿主を殺す。

私は運良く生き延びたに過ぎなかった。


「LGBTQには生産性がない」「(性的少数者が)隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」「生殖可能性がないカップルは、法的保護に値しない」
残念ながらこのように発言する人たちに、私たちの傷つきやすさと弱さについて語るのは、不毛かもしれない。彼らは私たちが傷つくからこそ、このような発言をしている、とも考えられるからだ。

人間は、なんらかのルール違反をした人に罰を与えることで、脳の報酬系回路のひとつが活性化するのだという(※2)。つまり、本当に、本当に醜悪なことに、彼らは「気持ち良くなっている」ということだ。社会の規範から逸脱した人間を苦しめることには、快楽が伴う。

その上、私たちが傷ついた結果として、萎縮し、発言を控えて日陰に戻るならば、彼らはより「満足」するだろう。「ほら、見たことか。これで”秩序”は守られた」と。

しかしそのような快楽が野放しになることは、もう許されない。

彼らに求めるのは、もはや「理解」ではない。「変化」だ。「社会が変わってしまう」ことだ。彼らが拠り所にしているルールや規範を塗り替えることだ。人の尊厳を踏みにじることで快楽を得ようとする、人間のあまりにざんねんな働きを、コントロールする術を身に着けてもらうことだ。そして、この国の、異様なまでに高い、セクシュアルマイノリティの自殺のリスクを低減することだ(※3)。

去年の夏、15年前の友人が自殺した年齢と、同じ年の少女と話す機会があった。

彼女は、「同じクラスに好きな女の子がいるんだよね」と教えてくれた。映画部に入っていて、ウチは女子校だから女の子同士の恋愛映画を撮るんだ。初めての主演だからうれしい。国際的な映画祭にも出品するんだよ、と。

私は、「社会が変わってしまう」ことを望んでいる。

政治家が国民の生殖に口を出すグロテスクな世界が。異性愛者の「男性」たちが、女性やそのほかのジェンダー、セクシュアリティの人間を貶めることで支配するシステムが。あの時の女子高生が、目の前の女子高生が、追い詰められてしまうような世界が。「変わってしまう」ことを望んでいる。

私は運良く生き延びたに過ぎなかった。だからこそ、誰もが運に頼らずとも、当たり前に生き延びる社会であってほしい。

私は願い続ける。そして言い続ける。社会は変わるべきだ。性的マイノリティの権利を、一時的な「流行」などではなく、不可逆に保証する社会へ。



※1 パートナーの同意を得て、複数のパートナーとの間で親密な関係を持つことまたは持ちたいと願うこと
※2 村中直人『叱る依存が止まらない』(紀伊国屋出版)
※3 性的少数者の自殺リスクその背後にある「生きづらさ」とは


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