「かわいいね」と言われる側の気持ち
与えられたものを評価されているだけで、本当の自分を評価されていないさみしさ
女の子にはとりあえず「かわいいね」って言っておけばいいと思ってませんか
女として生きていると、よく「かわいいね」ということばをかけられることがある。ある時は同世代の女の子から、またある時は、男の人から義務的なことばとして出てくることもある。
基本的には「かわいいね」というのは誉めことばであり、相手が自分に敵意がないことを示すことばだと思うが、また一方で、生きているうえでしがらみになることばでもあると感じることもある。
例えば、仕事でうまく会議をまわせたときに先輩に言われる「かわいいからみんなあなたのいうことをきくよ」とか、「絶対もてるでしょ、だってかわいいもん」とか、「変質者に声かけられたのはかわいいからだよ、私なんか誰にも声かけられないもん」とか(これはさすがに今の時代はNGだ。この発言をした中学の時の先生、絶対に私は許さないぞ…)
これらの発言はおそらく好意のうえで出たことばだ。きっと私を喜ばせようと思って話したんだと思う。でも、受け手はそうは思わない。
「会議がうまくまわせたのは、若くてかわいいからであって、あなたの実力ではない」「あなたはあなたという人間のなかで外面が最も特徴的だ、中身はよく知らないけど」「若くてかわいければ、ちょっとくらい不幸があってもいいよね」
そんな意味を含んだことばとして、わたしにふりかかってくる。
でも、わたしがほしいのは、最近生まれたという理由だけでまだはりのある肌への賛否でもなければ、親から与えられたこの顔への称賛でもない。
わたしがほしいのは、自分が身に着けたスキルを社会人として客観的に評価してほしいし、これまでの経験で養ったやさしさや大切にしている価値観に共感してほしい。
社会的には、まだまだ外見をほめることは「善」とされているようなので、それらの言葉を相手の好意(またはあいさつ)として受け止め愛想笑いして流すのが一番穏便だ。
でもほんとは、自分がコントロールできない部分を勝手に(多くの場合は初対面で)ジャッジメントされることは恐怖感もあり、また、相手にとって本当の自分は全然見えていないのだな、というさみしさもあった。
でも、ほめなかったらほめなかったでいじけるんでしょ?という方へ
「かわいい」ということばには意味がたくさんあるのも、もやもやの原因の一つだとおもいます。(「エモい」と一緒ですね」)
いままで「かわいいね」ですませていた皆さん、一度立ち止まって、その人のどこがいいと思うか言語化してみませんか。同じ外見をほめるのでも、「よく笑って、笑顔が素敵だね」とか、「服のセンスが好きだな」とか、「話上手だね」とか、「話していると気分が明るくなる」のように、具体的にその人の魅力的に感じた部分をほめると、その人が大切にしている価値観にふれることができるとおもいます。
さいごに(いやこいつ自惚れすぎやろ!と思った人へ)
私はもう20代後半ですし、さすがにかわいいといわれることは少なくなりました。でもそんな環境が心地よく感じて、安心感があって、わたしとあなたが外見を超えて向き合えているようで好きです。
周りの友達にこんな話をしたらちょっとうざがられそうなので、noteでこっそり書きました。誰かに届くといいな!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?