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神々のくくられ方<上・「世」というくくり>(『古事記』通読㉖ver.2.01)


※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら
※今回は、神世七代の八回目です。神世七代の一代目=国之常立神の回は、こちら「通読⑲」です。
※宇比地迩神と須比智迩神の話(通読㉕)と角杙神と活杙神の話(通読㉛)とをつなぐ幕間の話題としてお楽しみください。

■神世七代の三つの疑問

神世七代の特徴は、それが神世七代と呼ばれていることそれ自体にあります。

よく考えて見ると、『古事記』が、国之常立神(クニのトコタチの神)からイザナキ・イザナミまでの十二柱の神々が「神世七代」と呼称されていることからは、いくつかの疑問が浮かんできます。


疑問1
神世が七代と数えられている意味は何か(「代」で数えたことに込められた意味は何か)

『古事記』では、神々を、数でくくる記述が多く見られます。

たいていは、「この三柱の神は」のように、神々の数をひとまとまりに数えているだけの記述がほとんどですが、中には「神世七代」のように、数でのくくりが名詞化されているものもあります。

「神世七代」のようにくくりが名詞化されているものとしては、この他に「十七世神」と「十六柱神」があります。それぞれ助数詞(数を数える単位)が、「世」、「柱」、「代」と使い分けされていることから、分類ごとに異なる独自の意味が持たせてあることがわかります。

『古事記』で「代」の漢字が助数詞として用いられるのは「神世七代」だけです。『古事記』での「代」の用例は、他には、「山代(やましろ)」、「事代神(ことしろのかみ)」、「机代之物(つくえしろのもの)」、「日代宮(ひのしろのみや)」、「名代(みょうだい)」がありますが、いずれも名詞の一部分に過ぎず、単独での意味を持ちません。

「神世七代」の「代」の用法は、「代」それ自体が独立して意味を持っているという点で、「代」には特別な意味が込められていたことがわかります。

独立した「代」の事例が「神世七代」だけであることから、他の用例と比較することで「代」の意味を知ることはできませんが、『古事記』とほぼ同時代の『万葉集』では、「代」は、現代と同じく時代の区切りの連なりを表す意味で使われていますから、「神世七代」は「神の世が七代に渡る」という意味と取ることができます。

当たり前の結論ですが、「代」ではない別の助数詞である「世」を用いた「十七世神」も、「十七世に渡る神」という意味であることから、「代」と「世」の違いは何かという疑問が生じます。

【疑問1】を答えるには、まず、「代」と「世」との違いについて明らかにする必要がありそうです。それを知ることで、神世を七代と「代」で数えたことに込められた意味が明らかになってくるはずです。

また、なぜ七代を切り取ってくくっているのかという疑問もあります。これが、次に記す【疑問2】と【疑問3】です。


【疑問2】
神世七代に先行する天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から天之常立神(アメのトコタチの神)までの神々が、神の世の世代に連ならないのはなぜか。

最初に誕生した天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から、ずっと神世が続いているはずなのに、なぜ、国之常立神(クニのトコタチの神)からイザナキ・イザナミまでの十二柱の神々だけが神世七代と呼ばれるのでしょうか。
【疑問2】は、時間が古い方(系付図の上に来る方)の系譜の切り取り線が存在することについての疑問です。


【疑問3】
イザナキ・イザナミが産んだ神々が神世の世代とされないのはなぜか。

「神世七代」に先行する神々の時代が神世に数えられないのと同様に、「神世七代」に続く神々の時代も神世には数えられていません。神世が七代で終わることは何を意味しているのでしょうか。
【疑問3】は、時間が新しい方(系付図の下に来る方)の系譜の切り取り線が存在することについての疑問です。


これらの三つの疑問に答えることで、神世七代を理解する入り口に立つことができます。

神世七代の四代目の神々であり「神世七代の後五代の対で一代となる神々」の二番目となる角杙神(ツノグヒの神)と活杙神(イクグヒの神)が何を表しているのかに進む前に、まずはこの疑問に答えておきたいと思います。


準備として、『古事記』原文が手元にない方のために、以下に、冒頭部分とその構造図(表)とを再掲します。

■古事記原文
①天地(あめつち)初めてあらはしし時、高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
②次に、高御産巣日神(タカミムスヒの神)。
③次に、神産巣日神(カミムスヒの神)。
④この三柱(みはしら)の神は、独神(ひとりがみ)と成り、坐(い)まして、身を隠したまひき。
⑤次に、国稚(わか)く浮ける脂(あぶら)の如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)れる物に因(よ)りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。
⑥次に、天之常立神(アメノトコタチの神)。
⑦この二柱(ふたはしら)の神は、独神(ひとりがみ)と成り、坐(い)まして、身を隠したまひき。
⑧上の件(くだり)、五柱(いつはしら)の神は、別天神(ことあまつかみ)。

⑨次に成りませる神の名は、国之常立神(クニのトコタチの神)。
⑩次に、豊雲野神(トヨクモノの神)。
⑪この二柱(ふたはしら)の神もまた、独神(ひとりがみ)と成り、坐(い)まして、身を隠したまひき。
⑫次に成りませる神の名は、宇比地邇神(ウヒジニの神)。次、妹須比智邇神(スヒチニの神)。
⑬次に、角杙神(ツノグヒの神)。次に、妹活杙神(イクグヒの神)。 
⑭次に、意富斗能地神(オホトノヂの神)。次に、妹大斗乃辨神(オホトノベの神)。 
⑮次に、於母陀流神(オモダルの神)。次に、妹阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)。 
⑯次に、伊耶那岐神(イザナキの神)。次に、妹伊耶那美神(イザナミの神)。 
⑰上の件(くだり)、国之常立神(クニのトコタチの神)より以下、伊邪那美神(イザナミの神)より以前を并(あわ)せて神世七代といふ。

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■「十七世神」にみる「世」という神の数え方

神の連なりが数値で区切られ、そのくくりが名詞化されているものには、「神世七代」の他に、「十七世神」と「十六柱神」があります。それぞれ、助数詞(数を数える単位)は、「代」、「世」、「柱」と個別に使い分けがされていることから、分類ごとに異なる独自の意味が持たせてあることがわかります。

「柱」は『古事記』では一般的な神の数え方なので、まずは「世」に着目します。「十七世神」(とうあまりななよのかみ)と比較することにより、「神世七代」の区分の理由について考えてみたいと思います。


「十七世神」とは、八嶋士奴美神(ヤシマジヌミの神)から遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシの神)までの十五柱の神々を指す呼称です。下に系付図を載せます。[↓クリックで拡大できます。]

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なぜ十五柱なのに十七世とされるのかの理由は、大国主神(オホクニヌシの神)は、二回殺害され、二回甦るため、一柱で三世を数えるからです。

★マニアック注釈(マニア向け、読み飛ばし可能です♪)★
十五柱の神々が十七世とされる理由は、長らく不明でした。事代主神(コトシロヌシの神)など直系ではない神々を勘定に入れて足して十七とする説が唱えられていましたが、どの神を選択して十七とするかの違いで諸説あり、それぞれの説での加えられる二神の選定理由が、どれも恣意的で説得力に乏しく、定説はありませんでした。

ところが、1999年に古事記学会所属の姜鍾植(カン・ジョンシック)氏が、大国主神(オホクニヌシの神)は二回殺害され二回甦るため、一柱で三世となるという新説を出しました(姜鍾植『古事記の作品論』「第6章スサノヲの系譜「十七世神」について」)。大変合理的であり、私もこの説を支持しています(ただし姜氏の『古事記の作品論』の論点すべてに賛同しているわけではありません。賛同していない点については本連載に明らかですので、ここではとりあげません)。

上の系譜図からわかるように、「十七世神」を構成する十五柱は、スサノヲの子、孫、曾孫、玄孫…と直系に連なる男性神で、大国主神(オホクニヌシの神)の前後に連なっています。「十七世神」は、大国主神(オホクニヌシの神)がスサノヲの系譜であることを示す神々のくくりです。

第一世となる八嶋士奴美神(ヤシマジヌミの神)は、スサノヲが、八岐大蛇を退治して、足名椎神(アシナヅチの神=大山津見神(オオヤマヅミの神)の子)の娘である櫛名田比売(クシナダヒメ)を大蛇から救い、妻にめとって生まれた子です。

その八嶋士奴美神(ヤシマジヌミの神)から数えて五世の神である天之冬衣神(アメノフユキヌの神)の子となる神が、大国主神(オホクニヌシの神)です。十七世神の最後の神である遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシの神)は、大国主神(オホクニヌシの神)の九世の孫になります。


さて、この「十七世神」についても、「神世七代」と同様に、なぜ八嶋士奴美神(ヤシマジヌミの神)から遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシの神)までの神々だけが「十七世神」として切り取られているのかという疑問が生じます。

時間が新しい方(系付図の下に来る方)の系譜の切り取り線が存在する理由は簡単です。「十七世神」が、遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシの神)で終わっているのは、以降の系譜が不明ないしは遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシの神)で直系男性神が途切れたこととして理解可能だからです。時代が古い方がはっきりしていて新しい方が不明というのは合理的でないので、大国主神(オホクニヌシの神)の系譜(リネージ)は、九世の孫で途切れたと解釈するのが自然です。


次に、時間が古い方(系付図の上に来る方)の系譜の切り取り線の疑問です。系譜の観点からは、イザナキが第一世となるのが自然に思えます。

しかしながら、スサノヲはイザナキ単独の子ではありません(=夫婦の子ではありません)。スサノヲが第一世とされてないことは、「十七世神」の採用基準には、広く世界の他の民族にも見られる系譜(リネージ)のルール=「男系社会の系譜(リネージ)には、婚姻によって生まれ、認知された男子が掲載される」が働いていることがわかります。

世界の民族も含めた系譜(リネージ)については、文化人類学に研究の蓄積があり、「通読⑬」(↓)でもその一端をご紹介していますので、よろしかったらご一読下さい。

『古事記』は、視野・視座・視点に気をつけて読むと意味が取りやすくなります。「十七世神」は、「十七世神として成れり」といった神々の様子の伝聞調ではなく、「十七世神といふ」という視座を語り手とする記述がなされています。視座がヒトにある言葉であることから分かるように、「十七世神」は、神がつけた区分ではなくヒトがつけた区分として『古事記』には記述されています。ヒトにとって大切な系譜(リネージ)が、神々をたばねる呼称に反映されていることが、明確に記されているのです。

「神々のくくられ方<中・「代」というくくり>」に続きます)


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ver.1.1 minor updated at 9/1/2021(「■神々の数え方が示すもの」の文末を少し加筆しました)
ver.1.11 minor updated at 9/3/2021(タイトル変更)
ver.2.0  updated at 10/7/2021(長すぎるというご意見を頂戴したため、上中下に三分割しました)
ver.2.01  updated at 10/11/2021(冒頭のリンク間違いを修正)

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