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平成最後の夏に、自分の30年を振り返る

平成最後の夏を終えるにあたり、自分自身がどのように平成という時代を過ごしてきたかを振り返る、長い長い回顧録のような自己満足のポストです。恥ずかしいのであまり真剣に読まないでください。

写真はニューヨークの Herman Miller ショールームに置いてあったタワシのようなハリネズミさん。なぜこの写真を使おうかと思ったかというと、ハリネズミさんは私自身と共通点が多い動物だと思っていて、
・ 夜行性(夜更かし癖)
・ 単独生活の習性(ひとり大好き)
・ 恒温動物だが暑さ寒さに弱い(暑がり、かつ、寒がり)
・ あまり人になつかない(世渡り下手)
・ 名前を呼んでも反応しない(すみません)
など、勝手に親近感を抱いているからです。見た目のかわいらしさは私自身にはまったくないけど。

それでは、30年前に遡り、自分と平成を振り返ります。

平成元年の夏、私は小学校3年生の9歳で、日が暮れるまでサッカーボールを追いかけていた。

平成2年の夏、私は小学校のクラスの友達に別れを告げた。父親の海外転勤で、日本から6,000km離れた異国の地、パキスタンの首都・イスラマバードへ引っ越すことが決まった。

平成3年の夏、湾岸戦争の影響で次々と駐在日本人が帰国し、日本人学校のこどもは3分の1にまで減った。友達がいなくなってしまった私を見かねて、両親はイギリスにある立教の全寮制付属校へ私を送り出してくれた。

平成4年の夏、夏休み・冬休みなど長期の学校休みの度に一人でイギリスとパキスタンとを行き来する生活にも慣れた。姉は大学受験のために日本で一人暮らし。一家バラバラだったが不思議とホームシックにはならなかった。

平成5年の夏、父親の本帰国が決まった。中学一年生の私は、年度の終わりまでイギリスに滞在することになり、夏休みは現地でホームステイをしていた。13歳の私にとって、8ヶ月間も家族と会わないのは、さすがに少し寂しかった。

平成6年の夏、イギリスから日本の地元の中学(東京都武蔵野市)に転校した私は、テニス部に居場所を見つけた。ろくに勉強をしておらず、言われるがまま模試を受けると、偏差値は37だった。当時は、その数字の意味もよく理解できなかった。

平成7年の夏、勉強のよくできた姉と比較されるのが悔しくて、鬼のように勉強した。新しく覚えた公式を使って問題を解けるようになるのが嬉しく、また、自分の成績があがっていくのはゲーム感覚で楽しかった。これまでの人生で最もたくさん勉強した夏だった。

平成8年の夏、大学の附属高校に入り、大学受験のことを考える必要もなく、さらに最初の学期の数学のテストで100点を取ってしまったことで「なんだ余裕じゃないか」と勘違いしたことも相まって、一切勉強せず、ひたすらテニスに没頭した。一日12時間は練習していた。成績はみるみる落ちた。

平成9年の夏、年はじめの体育のハンドボールの授業で足首を骨折した私は、春にボルトを入れる手術を、夏にそれを抜く手術を経験した。手術後、一日でも早くテニスを再開できるようになるために、夏の間はずっと必死でリハビリをしていた。

平成10年の夏、部活の最後の試合が終わり、ようやく進学する学部を考え始めた。特に明確にやりたいことがあるわけでもなく、父に勧められるまま、理工学部の機械工学科を志望した。いま振り返れば、最良の選択だったと思える道を勧めてくれた父に感謝したい。

平成11年の夏、入会した関東でも有数の強豪テニスサークルでレギュラーを取るために必死で練習したが、叶わなかった。テニスをして、麻雀をして、仲間の家で毎夜馬鹿騒ぎをしていたあの夏は、楽しい思い出が一番多い夏だ。

平成12年の夏、二十歳になっても大人の自覚なんて微塵もなく、ますますサークルに熱中した。幹事代となったこの夏、私はインターネットの世界を知り、HTMLをかじって見よう見まねでサークルのWEBサイトを制作した。

平成13年の夏、サークルの幹事代を終えても、テニスにはなお熱中し続けた。実験など出席が必須の授業が多い理工学部、この3年生の夏の時点で4年間での卒業はほぼ諦めていた。

平成14年の夏、相変わらずテニスを続けていたが、理工学部にいることが辛くなり、文系学部へ転部という名の逃避行を画策した。結局、そんな中途半端な動機で転部などできるはずもなく、ネットにはますますハマり、廃人並にゲームをしたり、学業とは全く関係ない本を読み耽ったり、ただダラダラと日々を過ごした。

平成15年の夏、なんとかゼミに入ると、そこには自分の全く知らない世界が広がっていた。コミュニケーションやデザインへの興味がふつふつと湧き出し、この年ようやく本来的な意味での「学生」となった。

平成16年の夏、「メーカーで、業界のトップシェア企業で、コミュニケーションやデザインに関わる会社」という3条件で就活し、今も勤めている会社に内定をもらった。卒論研究は他の学生から大きな遅れを取っていたが、なんとか卒業できるようにがんばった。必死で取り組んだ研究は楽しかった。

平成17年の夏、社会人として初めて迎えた夏。本当はデザイン系の部門に行きたかったが、面接の際に建築系学部か美大でないとダメと言われ、営業職で勉強しますと言って営業支店に配属となった。良い先輩や上司に巡り会えたこともあって、仕事を覚えるのが楽しかった。

平成18年の夏、勉強しただけ偏差値があがるのが楽しかった中学3年の夏に似ている。がんばればがんばった分だけ営業成績として数字が出た営業職は、自分としてはゲームのような感覚で、ほとんど休むこともなくひたすら仕事に明け暮れた。

平成19年の夏、3年目になって営業に飽きを感じ始めた。この頃、社内公募で他部門への異動ができるチャレンジ制度というものがあることを知る。この年の暮れに出た研究所への公募に応募して異動することになるのだが、営業を離れる決意をさせたのは、今でも最も仲の良い一人の同期の存在だった。彼は非常にバランスのとれた優秀な営業で、この先営業を続けていてもヤツにはきっと勝てない、それなら自分は違う分野へ進もう、と考えた。

平成20年の夏、晴れて社内の研究所へ異動した私は、オフィス空間やワークスタイルについての調査研究を行うセクションに入り、当時一種の流行にもなっていた環境配慮型オフィスについて様々な研究活動を行った。

平成21年の夏、オフィス関係の業界団体が主催するアメリカの企業視察ツアーのテーマがたまたまLEED(建築物の環境影響評価システム)だったことで、研究を始めて間もなかったが、運良く参加させてもらった。訪米は人生で2度目だったが、海外のオフィスビルを見学したのは当然初めてで、非常に良い経験になった。

平成22年の夏、研究所内でICT・情報環境デザインを研究するセクションに異動した。もともと好きな分野であったこともあり、学生のときに取り組んだコミュニケーション工学との親和性も高かったので、モチベーションも高く、貪るように知識を吸収した。30歳となったこの年、私は結婚した。

平成23年の夏、営業と研究の両方の経験を活かして、社外組織との共創プロジェクトや、新事業立ち上げのプロジェクトなど、ICT・情報環境デザインの枠を超えていろいろな仕事に関わらせてもらえるようになった。結果は失敗ばかりだったが、いま思い返すとあの頃の失敗経験がなければ今の自分は形作られていないと思える。貴重な経験だった。

平成24年の夏、公共空間やパブリックな組織に関する研究を主に行うセクションへ異動となったが、研究所の所長からは「やりたいと思うことを企画にしてやってみろ」と言われ、実際にはほぼフリーな立ち位置で、とにかく何か「新しいこと」を模索した。最終的に行き着いたのが「はたらくのデザイン」、この企画自体は翌年の自分の異動によりお蔵入りすることになるが、何の因果か、別のアプローチから生まれたプロジェクトが自分がやりたかったことをほぼそのまま実現してくれており、結局、自分もいまそれに関わることになっている。この年、長女が生まれた。

平成25年の夏、陽射しが強くなってきた初夏のある日、突然、所長から営業支店への異動を告げられた。まさか、再び営業職をやるとは夢にも思っていなかった。もともとうちの会社は営業職とそれ以外の職種の本部を跨いだ異動が非常に少なく、多能工な人材が育っていないことが問題視されていて、その状況を変えていく第一歩として、営業部門の社員と企画・開発・研究系部門の社員とのトレード異動が行われることとなり、私はそれに選ばれた。

平成26年の夏、2度目の営業職では、モチベーションを保つことが大変だった。研究所にいた5年間で、自社製品はもちろん、社内のシステムも大きく様変わりしており、覚えることは山ほどあったが、どうしても自分の将来的なキャリアが描けずにいた。社会人10年目の夏は、ほろ苦いどころか、文字通り嘗胆の味として忘れることはない。

平成27年の夏、営業職を続けながらも、何か新しいことをやりたいという衝動を抑えられず、入社直後の営業支店時代の社内人脈と、研究職時代の社内人脈とをフル活用して、先述した「はたらくのデザイン」に関する産声をあげたばかりのプロジェクトメンバーに無理やり加えてもらった。20〜30名のメンバーで営業は私一人だけだった。この年、長男が生まれた。

平成28年の夏、ようやく転機が訪れる。新入社員として入社したときの営業支店の支店長。最も尊敬し信頼する私にとっての「永遠の上司」が、営業部門の取締役となり、素直に思いを伝えたところ、私は営業部門をサポートする専門部隊へ異動となった。それから先のことを見据えて、オフィス事業に関わる幅広いジャンルの知識を誰よりも深く得ようと努力した。ゲーム感覚で勉強していた15歳の夏とも、同じくゲーム感覚で数字を追っていた社会人2年目の夏とも違い、自らの意思で、主体的に勉強し、仕事に取り組んだ。

平成29年の夏、ある朝、取締役からskypeでコールがきた。「どうだ、元気か」「はい!めちゃくちゃ頑張ってます」「よし、お前な、来月、俺んとこに呼ぶから」こんな感じの、短い会話だったが、私も準備はできたと感じていたこともあって、不思議なほど驚きはなかった。翌月から、私は"政策秘書"のようなポジションで、取締役の黒子として仕事をしはじめた。

そして、平成30年の夏、平成最後の夏。私はマーケティングや営業戦略の立案、社内の働き方改革、働き方改革支援の事業展開、「はたらくをデザイン」するプロジェクト、新事業の立ち上げなど、一体どの仕事がメインなのかよく分からなくなるほど、幅広く多くの仕事に携わらせてもらっている。

自分には、「私はこの分野のスペシャリストです」と自信を持って言えるジャンルはない。転職したこともないので、一つの会社しか知らない。それでも、人生のときどきで、人に胸を張って「私はあの頃、これに熱中していました」と言えることが、いくつもあることは誇りに思う。

「平成の最後の夏」が終わる。平成の30年間は、総じて幸運だった。自分の努力だけで達成できたことはほんの一握りしかない。両親や姉、妻、こどもたち、友人たち、仕事仲間に支えられて生きている。このコラムに用いた写真のハリネズミだが、ヨーロッパでは「幸運のシンボル」とされている地域もあるそうだ。ハリネズミにあやかり、これからもその幸運が続けばよいとは思うが、願わくば、天からの幸運を多く得るよりも、時代が変わっていっても人生の節々で自分の心に素直になり、心血を注いで何かに「熱中する」ことができる人間でありたいと思う。

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