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メッセージ

今日は、メッセージについて書いていきます。

超常的なメッセージは、概して「言葉にできない」とわたしは思っています。

言葉というのは、あくまで「名づけ」です。
言葉は、体験そのものではありません。
すべてがグラデーションでできているこの世では、その「名づけ」という行為そのものに限界があります。

すべてがグラデーションって、どういうこと?と言いますと。
以前、こちらの記事でも言及しましたが、

例を挙げるとすれば、色彩の表現。
「緑」と聞いて、どんな緑を思い浮かべるかは、人それぞれです。
どこからどこまでが緑なの?なんていろいろな人に聞いてみたところで、感じ方は人それぞれですよね。
青信号を緑と見るか、青と見るか。それを、正しい・正しくないで言い争うことも、相手の感性を受け入れることも、わたしたちにはどちらの選択も許されています。

したがって、あえて換言すれば
この世のものを、どのように見るか、感じるかは、「受け取る側の勝手」状態。
みんな、見たいように見て、感じたいように感じているわけです。

もっと言えば、相手の目から入った色彩の信号が、どのような色を脳に伝えているかなんて、我々は知り得ません。
相手がどのように感じているかが手に取るようにわかったら、あっという間に世界は平和になるでしょうが、この世の基本は「わかりあえない」。
テレパシーが隔絶されている以上、相手が「緑」をどのように思い浮かべても、
どのように解釈してもそれがすべて正解となるのです。
そのようにして成り立っているこの世は、幻想である。というわけですね。

また、超常的なメッセージが、人を通して言葉にして伝えられるときは、
その人が蓄積した経験によって形づくられた、その人独自のフィルターを通して伝えられるので、
どうしてもメッセージは歪められるし、表現方法も十人十色になります。
だから、ちょっと俗っぽい…誤解を招く表現になってしまいますが、メッセンジャーが素直で透明でないと、高い霊性をもったメッセージはそもそも現れてくれないだろうし、受け取ったり、伝えることも出来ないだろうと思います。

また、その人が知恵(敬愛する僕アニでは「識」とおっしゃっています)を蓄えた量によっても、表現は左右されます。

というわけで、何が言いたいかというと…
その人が、それまでの人生で学んできた言葉の表現をとる以上、どうしても歪んだメッセージとなってしまうのは仕方のないことです。

そしてこれは、メッセージを受け取る側においても同じことが言えるでしょう。
受け取る側の知恵も十人十色ですから、受け取り方も人それぞれです。
繰り返しになりますが、幻想の世界、ですからね。

でも、これだけは声を大にして言えます。
メッセージを読んだ時、あるいは自分の神様からの言葉を受け取ったとき、それをどのように咀嚼するかや取捨選択するかは、
自分のその時々の直観に従うのが一番良い、ということです。
結局、大切なことは、自分を信じること。
この世で一番信じられるのは、自分自身であることに間違いありません。

わたしがこのnoteを通してお伝えしたいのは、
ご自身を大切にしましょう。ご自身と、ご自身の神様を信じましょう。ということです。
嫌だと思った人や情報は、それを無理なく愛せる距離になるまで、距離を置けばよいのです。
「愛」というといきなり仰々しい響きになりますし、ついつい「愛」とは「人に向けられる愛」を想像してしまいがちですが、自分が良い気分でいられるようにすることが、実は究極の愛だったりします。

強い言葉にはなりますが、どんな選択をするかは、この世が幻想である以上、自己責任です。どのように受け取っても、どのように解釈しても許される世の中なのだから。
だから、恐れを促すものや人から、まずは自分自身を守りましょう。
そして、「いい気分」ベースで、選択するのです。
これが板についてくると、周囲の人々のことも、大切にできるようになります。
たとえば、自分が良いと思ったことを人に薦めて、それがたとえ拒絶されても、その人の直観を尊重できる自分になっているので、「そっか、聞いてくれてありがとう」とその人の選択を愛せるようになるからです。

実は、これからの記事では、
わたしが体験した ちょっとオカルトなお話をつづろうと思っているので、
こんなお話を事前にしてみることにしました。

読んでくださってありがとうございます。
今日は、ここまで!

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