美しい朝日をみた時、あなたはなにを思いますか
ドラマを観ました。
伊藤沙莉ちゃんのファンなので、放送前から楽しみにしていた作品。
でも、覚悟が足りてなかったみたい。
吐きそうになりました。
吐きそう、という表現は決して作品を否定しているわけではないんです。
むしろその一つ一つが、突き刺さりすぎて。
共感、かなしみ、怒り、嫌悪感、落胆、焦燥感、発見。
忘れられない記憶や、ことばに出来なかった感情が、溢れだして止まらなくなりました。
私は昔、知人に「お前が死にたいと言いながらムダにした今日は、だれかが生きたくても生きられなかった明日かもしれないんだぞ!」と、言われたことがあります。
もちろんわかるんですよ、言いたいことは。
友人は私を元気づけようとしてくれてることも、そのだれかの命の、尊さも。痛いほど。
だけどたぶん、ムダかどうかを決めるのは、あなたじゃない。
「死にたい」って言葉を口に出すと、怒られたりするんですよね。
でも私は正直「死にたいと思うこと」は、悪じゃないと考えています。
特別、大きな不幸があったわけじゃない。
ベッドで横になったとき。
電車の窓にうつる自分をみたとき。
背負っている荷物の重さを、再確認したとき。
フッと、なんとなく、唐突に。
その感覚は、訪れたりします。
ひとはみんな一人で、自分の人生は自分の足で歩くしかありません。
誰かにかわってもらうことも、かわってあげることもできない。
これって意味あるの?なんかの役に立ってるの?って毎晩ぐるぐる考えて、それでも止まらず、進み続けなきゃならないんです。
そうやって人知れず積み重ねて、ずっとずっと闘い続けてる。
だけど、実際のところ「死にたい」と「死」の間には、壁が存在します。
本能ともいえるような、大きかったり繊細だったりする壁が。
そしてその壁を、どうにか乗り越えなくてすむように、わたしたちはいろんな方法をとっているんです。
医学の力を借りることもあるけど、ただただ何もせずボーっとしたり、どこかに言葉を吐き出したり、心身を傷つけてみたり、枯れるまで泣いたり。
音楽や本や映像、美味しいものや動物や、推しに力を借りることもあれば、だれかに会いにいったりもします。
ドラマの主人公、ももだってそうでした。
正解なんてないんです。
死にたいという言葉の向こう側には、それぞれに全くちがう顔があって、全くちがう背景がある。
正しいかどうかはいったん置いておいて、その都度自分にあった命綱を、必死にもがいて、探しているんです。
他人からはバカバカしい方法にみえたとしても、そうやって、壁を越えないよう耐えながら、生きている。
そんな背景を想像することもなく勝手に決めつけて叱咤するのは、優しさではないと、私は思います。
さっきから私が言っているこの「感覚」って、わからないひとには全くわからないものなのかもしれません。
それはそれで、良いことでしょう。
でも、「わかる」と思ってくれる人たちにとっては、この「ももさんと7人のパパゲーノ」は、ひとつの共通理解になる作品なんじゃないかな。
このドラマの向こうにはきっと、経験や取材をもとにたくさんの背景を考えて、考えぬいて、それでも願っている、だれかの存在がある。
フィクションだけど大げさじゃなく流れていくストーリーは、物語の一つ一つが、わたしたちの日常なんだということを伝えてくれています。
この作品から受け取れる私で、良かった。
それだけでもあの日々は、無駄じゃなかったと思っていいよね。
そうやって過去に意味を見出しながら、今日も私は生きる選択をしています。
8月に放送されたドラマ「ももさんと7人のパパゲーノ」
もっと多くのひとに観てほしいなと思っていたら、再放送があるようです。
10月30日(日)午前2:05~3:07
NHK総合1・東京
この機会に届くといいな。
追記
その後も何度か再放送がされているようです。
詳しくは公式のホームページやSNSをご確認ください。
なぜ生きなきゃいけないのか。
なぜ死を選んではいけないのか。
その明確な答えを、まだ私も知りません。
ただ生きてみたその先に、なにがあるかもわからないから。
ひとはみんな一人だからこそ、より添いあいたいと願うし
違いがあるからこそ、知りたくて努力する。
異なる人生を歩いてきた、一人一人と出会っていけば
自分だけでは考えつかない答えがでてくる時もある。
想像すらしなかった景色をみられる日もある、かもしれない。
あの日みた朝焼けに感じた安堵や絶望が、まったくちがう感情にかわる日もくる、かもしれない。
だから、どうかもうちょっとだけ。
少し未来で、笑い会える日を待っています。
スキ、フォローしてくださるととっても嬉しくて励みになります!