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学歴フィルターのその先へ

能力主義は正義なのか?

学歴フィルターに取り残された人たち

「努力は報われる」
成功した人たちは、決まってそう口にする。
大勢の学生を前に講演してくれと頼まれたら、おそらく私も同じことを言うだろう。

きちんと勉強をして、有名大学に合格し、名のある企業に就職する――といいうレールに乗っていけるのは、実はほんの一握りの恵まれた人たちだけだ。

とくに、これから本格的に勉強していこうという大学に入学した時点で、未来が大きく制限されてしまう学歴フィルターの存在は、フィルターにかかってしまう多くの学生にとって希望を失う理由になるだろう。

有名な大学に入れるような人たちは、きちんと努力して勉強したのだから、それ相応の対価を得るのは当然だ。
いわゆるFランといわれるような大学にしか入れない学力の持ち主を、企業は求めていない。

そんな意見も、すごく納得できる。
もちろん学力=仕事ができるでないのは共通認識だろうけど、ある程度学歴によって頭の良さがわかれてしまっている現状は否めない。

グループディスカッションの思い出

自分も、そう遠くない昔に就職活動をした。
いちおうESで足切りにならない程度の大学にいたのだが、それでもたくさんの企業に落ちたし、面接で落とされたこともたくさんある。

その途中、ほかの学生といっしょに面接を受けることもあった。
緊張してるなあとかグダグダだなあとか思うことも多かったけど、面接は対策ができる。
慣れてくれば質問も予想できるようになるし、どこの企業でも答えることはいっしょだ。

それよりも地がでるのはグループディスカッションだった。
タイムキーパーが受かりやすいとか仕切りすぎるなとか都市伝説がたくさんあるグルディスは、たくさん話すしアイデアも必要なので、面接よりもずっとその人の本性が見えやすい。

ふだんあまり大学の外に出なかった私にとって、いろんな学校の人と話せるのは貴重な体験だった。
そして、すごく嫌な言い方になるけど、グループディカッションにおいて、学歴フィルターは間違いなく有効だった。

具体的に言うと、早慶クラスの人たちはみなそこそこ優秀だった。話がまとまるのが早いし、議論も脱線しないし、面白いアイデアがでてくる。

MARCHクラスの人たちは議論のかたちは取れるものの、なんだかあやふやな結論が多く、話してて面白いと思う機会がすくなかった。

そして、それよりも偏差値が下の学生たちは、なんだかすごく「難しいことは頭の良い人たちに任せよう」というような雰囲気があったように感じた。

東大京大レベルの人たちはそもそも出会う機会が少ないのか(もしかすると私も学歴フィルターによって彼らと同席する機会を奪われていたのかもしれない)、あまり見かけなかった。

自分のなかにも偏見があって、大学名で色眼鏡をかけてしまっていたのかもしれないけど、就活のときに感じた「学歴フィルターの有効性」は、かなりはっきりと価値観として根付いてしまっている。

大学受験がすべてか?

そもそも大学受験で、有名な学校に受かるような人は頭が良いか、ちゃんと努力をしたような人であり、企業に入ってもある程度の期待はできるだろう。

採用はなにが正解かわからない以上、学歴という目に見えるデータを使って期待値を高めるのは、企業にとって自然な選択だ。

とまあ、ここまで書いてきて、私の傲慢さにすごくイライラしている人も多いのではないかと思う。
上から目線で、何様だ!
そう、その感情こそが問題なのだ。私は努力をして良い大学に入り、良い会社に入ったかもしれないけど、だからといって何も偉いわけじゃないのである。

「努力は報われる」は、裏を返せば「報われない人たちは努力をしていない」になってしまいがちだ。
そして、努力がいちばんわかりやすい結果が勉強であり、大学受験なのである。

だが、学力だけが成功につながるわけではない。
どれだけ頭の良い人も失敗するし、運が良いだけで成り上がった人もいる。

本当にただしく評価をするならば学力や学歴ではなく、「どれだけ人のために役立っているか」を指標にすべきだろう。
だが、それをはかる手段もまたお金しかないのが現状だ。
人に何かをしてもらう対価がお金である以上、お金持ちはほかの人のために色々なことをしているのだということになる。

自分の幸福は自分が決める。
そんな社会が理想だが、人はどうしても他人と比べることで幸せを感じるようにできている。
その指標がお金であり、能力であり、地位なのだと思う。

いろんな幸運のおかげでいまはわりと安定した生活を送っている。
その感謝を、きちんと誰かに還元していく人でありたいと思う。



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