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遅すぎた、あるいは早すぎたオリンピック

せつなすぎる開会式

2021年7月23日午後8時。

静まりかえった国立競技場の中央に、ひとりのアスリートが浮かび上がった。そこから始まるプロジェクションマッピングの鮮やかさに心打たれながらも、私が感じていたのは、一抹の物悲しさだった。

もしも、コロナがなかったら。
2020年の夏、満員の国立競技場で、5人そろった嵐がこの日のために用意された歌で出迎えていたことだろう。

東日本大震災からおよそ10年。復興五輪と題されたこの祭典は日本国民のくじけない気持ちを象徴するはずだった。

だが、テレビ画面に映るのは空っぽの客席と、全員がマスクをした選手たち。各国の選手団が入場する感動的なシーンは、空白に向かって振られる彼らの手が、むなしく思えるだけだった。

胸騒ぎの東京招致

「お、も、て、な、し」「TOKYO」

2013年9月。日本の首都が呼ばれたとき、私は正直「ヤなところが選ばれたな」と感じたのをよく覚えている。

もちろん未曾有のウイルスが世界中に広まるなかでの開催になるなんて予想してたわけじゃない。ただきっと、狭い東京の土地に競技場を建てるためにたくさんのお金が使われるだろうと思っていたのだ。

震災からおよそ2年半。首都圏で暮らす私の日常はほとんど元通りになっていて、きっと2020年にはすっかり回復した日本の姿を世界中に発信する絶好の機会になるだろう。

理屈の上ではそうわかっていた。だが、あのときはまだ、手放しで喜んでいられるほど東北の復興は進んでいなかったし、そのための税金が五輪に使われるのだと考えるだけでうんざりしていた。それだけのことだった。

いまや招致で活躍していた猪瀬知事も、滝川クリステルも、太田雄貴も、ひとりとして表舞台に立っていない。8年という月日は物事を変えるのに十分すぎる時間だった。

全て外れたチケット

あれから何年か経ち、国立競技場のデザインで揉めたとか、エンブレムがパクリだったとかいくつか問題はあったけど、じっさい開催が近づいてくると楽しみに思っていた。

重たくて全然つながらないチケット争奪戦になんとか参加し、仕事のスケジュールを確認しながら、せめて部活でやっていたフェンシングは見たいな―と申し込んだものの、結果は全滅。

せめて一生に一度くらいは、世界トップレベルの試合を生で見てみたかった……。落ち込んでいたのもつかの間、暑すぎてマラソンだけ札幌に移すとか、ちょっとずつきな臭いニュースが増えはじめる。

そして2020年に入ってすぐ、新型コロナウイルスのニュースが報道された。最初はまた中国で病気が流行ったのかくらいに思っていたけれど、あれよあれよという間に感染拡大、東京での開催は延期となった。

おそらく世界中の人々のほとんどが1年以上もマスクをつけた生活を強いられ続けるとは想像していなかっただろう。ワクチンが製造され、ようやく人類はこの病気を克服しつつあるが、いまだに我々は非日常のなかにいる。

日常へのチケット

祭りは、非日常をもたらしてくれる。
だが、それを楽しむことができるのは、あくまで”日常”のなかにいるときだけだ。

いまはワクチンが日常へ引き戻してくれるチケットのように扱われている。
けれど打ち終わっているのは老人ばかりで、日本社会を支えている若い人たちは非日常に取り残されたままだ。

そんななかで、4年にいちどの祭典を開催するのは、間違いなく無理があった。

日本は勇気を持ってNOと言うべきだった。だが、言えなかった。

その失望は次々と標的を変え、オリンピックに関わる責任者たちに向けられている。少しでも失態や過ちがあればわかりやすくやり玉に挙げられてしまう。

もちろんこの日のために努力してきた選手たちにはなんの罪もない。
本当のことを言えば、誰にも罪はないのだ。

雨が降ったから、遠足は中止。
けど、いままで準備してきたから、カッパがあれば大丈夫だからと強行してしまった遠足を、いったい誰が楽しめるだろう。

このオリンピックが閉幕を告げたあと、我々が引き戻されるのは、日常だろうか、それとも非日常だろうか。

「帰るまでが遠足です」
私たちはきっとまだ、大雨のなかで立ち尽くしている。

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