69年 酒樽が教会のベンチになった歴史秘話
ジェームズ・H・バラ宣教師といえば明治維新の7年前、1861に来日。既に来日していたJ・C・ヘボン、S・R・ブラウン、J・ゴーブルと共に成仏寺に住んで日本宣教を開始した人物。
日本で最初のプロテスタント教会を設立したことで知られる。
(一番下に、クリスチャン新聞に載ったこの記事のスクラップがある)
バラは、1873年(明治6年)、大胆にも三島市の目抜き通り、三島大社の鳥居の前で路傍伝道を敢行!
群衆の迫害、投石を受け、協力牧師は着物の裾をはぎとられる始末。
それを目撃した市右衛守(別情報によると質屋の小出市兵衛)という人物は、自宅裏二階に匿った。そのため門と塀にコールタールをかけられた。
さらに続く迫害の中、バラ宣教師は、市右衛守の親戚、花島兵右衛門宅に身を寄せた。
兵右衛門は、先祖伝来の酒造蔵のなかでバラから聖書の福音を説き聞かされた。
そして天地の創造主なる神、イエス様を救い主として信じ、クリスチャンになってしまった!
その信仰の証しとして兵右衛門は、その酒造蔵をチャペルと、キリスト教主義学校にしてしまった。
それは現在の日本基督教団・三島教会につながる。
そして直径2メートルの「スーパー酒樽」はそのチャペルのベンチに変貌したのである(当時のプロテスタント教会の気風として飲酒を罪悪視したのである)。
酒樽を壊して酒は川に流してしまい、市中には3日間、酒の香りが漂ったという。
69年当時、このベンチは同教会の祈祷室に移されており、当時の9代目・武井牧師は「酒樽を椅子にする信仰の証しを教会の尊い遺産として活かしたい」とコメントしている。
三島市> 文化財一覧 > 花島家資料
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/websystem/bunkazai/syousai000073.html
花島家は明治18年から牛乳販売をはじめ、24年に練乳場を創業しコンデンスミルク製造を開始、31年には製品を海外に輸出するようになった。
また、キリスト教徒の草分けとして、明治19年に花島家一族7名が洗礼を受け、信仰のため当時営んでいた酒造業をやめ、酒蔵の1階を教会礼拝堂に、2階を県下初のキリスト教主義女学校「薔薇女学校」の教室に改装した。
今回はこれら資料のうち、136点を市文化財に指定した。
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