大阪繁華の扇町教会のはじまりと過疎地の夜久野教会と、名物牧師
戦争終結10年前(1935年)、中路嶋雄牧師が大阪へ。自給で開拓伝道に「派遣」され、扇町教会(現在の日本基督教団・扇町教会)という大きな教会が築かれるに至った。
他所にも教会を開拓していった扇町教会の中路牧師。
その中に、自分の郷里であるである、京都の兵庫県との県境にある「夜久野」教会の開拓伝道、教会設立もあった。
中路牧師から、戦後の混乱期、青年時代に福音を聞き、クリスチャンになった辻中昭一牧師。
彼は扇町教会を継ぐとともに、自らも開拓伝道(千里聖愛教会など)を行い、また大阪で、教界にあってさまざまな重責を担った。
大きな建物を持ち、かつての幼稚園の跡地も持つ夜久野教会は、孤塁を守る形になっていった。
中路牧師の係累の者がほそぼそと守っていたが去らざるを得なく。その時、辻中牧師は80を越えていたが、深夜祈っていて、自分が夜久野教会に赴任するように神から直々に諭された。
そして、3ー4年、天に凱旋するまでそこに住んだり、通ったりして勤めを果たした。
いま・・・・夜久野教会(ほぼ「遺構」状態)は、「近隣」の地元の日基教団所属諸教会にとって、「お荷物」的な存在になっている。
そこに日基教団京都教区青年会の人達がごく最近、ツアーを組んで訪問し、孤塁を守っている地元の人から率直な話を聞いてきた。
以上「日刊・生放送1334回 夜久野教会(京都府の外れ)の数奇な忘れられた歴史 2023年12月26日(火)18時」からコピペ
下記のクリスチャン新聞バックナンバーを発端に、さらに発展させて書くことになるかも。
扇町教会創(設1935年、昭和10年)者・中路牧師の郷里でかつて栄えた夜久野教会のことなど含め
🔷私が思うところは、戦前、終戦直後の牧師たちは非常に献身的に、大きな働きを、規模も広げたが、次の世代、次の次の世代に、新たな発展を許す継承をすることが極端に下手であった。ということ。
*その結果、統一協会や、怪しげな新興宗教ばかりが発展した日本となった
*伝統的キリスト教会には閑古鳥が鳴いているところも多い
*礼拝時に歌う賛美歌一つにしても、若い人の感性で、クオリティーの高いもの(例えば、J-POPのレジェンド小坂忠などその旗手)を頑なに採り入れない。情報収集すらおそらくない。自分たちの若い頃にやっていたやり方を固守する。若い人が来ても上から目線で、嫌気をさされる。そんなところ?
下記はFB「日刊・生放送1334回 夜久野教会(京都府の外れ)の数奇な忘れられた歴史 2023年12月26日(火)18時」載せたネット情報。
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◆開いたサイト
🔷私がこの物語を掘り起こすきっかけとなったクリスチャン新聞1974年12月21日号
中路牧師本人の筆。中路さんの牧師としてのスタンス、あくまでも神様のことを真剣に大事にし、神の栄光を求めることを信徒に求めた姿勢が伝わってくるような思いがする。「かなり癖の強い人なんでないの?」などと私は思ってしまうところがあるが・・・。「大きな器」の考えることは私のような小さな人間には分からない
(NOTEに取り敢えず載せた)
*中路嶋雄牧師が開拓伝道し、辻中昭一牧師が一時後継した日基教団・扇町教会公式
🔷故・中路嶋雄牧師と、その後継だった故・辻中昭一牧師の関係性
都島工業専門学校機械科の生徒だったところ中路牧師が教師として教えてに来て・・・
https://core.ac.uk/download/pdf/35265731.pdf
(開かない場合、直接コピペしてください)
🔷辻中牧師が開拓した日基教団・千里聖愛教会公式
🔷辻中牧師の追悼式(at大阪クリスチャンセンター)に本当にたまたま出席した女性が、大変感動して記した辻中牧師の最晩年と、最期(天に御使いのお迎えに感動の声を上げ、凱旋のしるしとして両手を上げておられたのではないか?)
🔷日本キリスト教団京都教区の機関誌「京都教区ニュース」に辻中牧師本人筆の「八〇歳からの開拓伝道」夜久野教会牧師として信者3-4人の教会を牧会している。その動機と状況
http://www.uccj-kyoto.com/magazine/071010.pdf
🔷扇町教会から夜久野までの経路。現在でもクルマで1時間半かかる
🔷日本キリスト教団 京都教区 京都南部地区 青年部 FB面白い!
https://www.facebook.com/uccj.kyoto.young/
🔷日基教団「教団新報」訃報欄に出た辻中牧師の報
🔷J-POP黎明期のレジェンド小坂忠さんの「HORO(ほうろう)」。BBラウンジならぬ「ALFA MUSIC」公式YouTube
🔷小坂忠さんのゴスペルの一つ
🔷夜久野教会は立派な建物だけが残っている(京北(きょうほく)教会ブログ)
🔷wiki夜久野町
少なくとも奈良時代末期から平安時代初期より夜久郷として郷が確立していた。これは現在の夜久野町全域と重なっていた推定されている。やがて江戸時代末期・明治初期から夜久野郷と呼ばれるようになった[1]。江戸時代から明治期にかけて、西日本を代表する漆の一大生産地であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E4%B9%85%E9%87%8E%E7%94%
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◆今日のこの生放送の記録(FaceBook。コメントなども読めますよ!)
https://www.facebook.com/michiharu.miura/videos/723856906061288/
◆毎日(日曜除く)午後6時の生放送は私のFBで
https://www.facebook.com/michiharu.miura/
◆過去の私の生放送のアーカイブ。面白い番組がよりどりみどりです。
https://www.youtube.com/channel/UCFOS4T-LqPcze3PfUhJ7maQ/videosh
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