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これは能力主義に対する信仰だ—『PEAK 超一流になるのは才能か努力か』

才能と努力を対比させつつ描くエンタメは多い。最近だと『はねバド!』はとても好きだ。本書は超一流となった人の研究を通して、能力や成果は才能ではなく努力に由来する、と説く。

たとえば先天的なものに由来すると思われていた絶対音感でさえ、幼少期に正しく訓練すれば獲得できるという。それどころか、大人になってからでも脳は鍛えられるらしい。脳が育つ例としてロンドンのタクシードライバーなんかが例に出されるのだが、再現性の薄そうな話が多いというか、「種としての人間」と「個としての人間」を混同しているような議論が目立つ。たとえばロンドンのタクシードライバーになれた人は海馬が後天的に発達していて、なれなかった人は海馬が発達していなかったという。それは筋肥大の上限に才能があるように「海馬が非常に大きくなる才能があった」ことにはならないのか。ここに関して遺伝学的な検討をした形跡はない。

他にも努力の例として出されるマラソンの世界記録。1908年のオリンピックの優勝タイムは2時間55分18秒で、現代では市民ランナーでさえ達成可能な記録である。著者はこれをトレーニングの成果であり、人間の能力が上がっているわけではないとしている。正直、論拠として明らかに薄弱であろう。飛び込み競技の高度化も例に挙げられるが、歴史の浅いスポーツは発展速度も大きいことを見逃している。もちろんスポーツ科学の進歩によってトレーニングが進歩したことは大きいだろうが、多くのスポーツにおいては用具の進歩もかなりのウェイトを占めていよう。用具の寄与度を計算していれば印象度も変わったが、そこは計算していない。

反例を挙げよう。たとえばやり投げの世界記録は1996年にチェコのヤン・ゼレズニーが記録した98m48が2022年になっても破られていない。著者は「人類の能力に上限はあるのかもしれないが、まだ人間がそこに達した兆しはない」としているが、やり投げをはじめとした一部の競技は既に人類の上限に来ていそうなわけで、言い過ぎだと感じる。

スポーツを例に出すのは悪手であろう。身長や筋肉量、さらには速筋と遅筋の比率が遺伝でほぼ決まっている以上、プロアスリートになるなら多くの競技で体格が物を言う。そんな世界で才能を殊更小さく扱うのは不誠実だ。もちろん、努力すれば大抵の人はマラソンのサブスリーを達成できるだろうし、多くの男性は体重の1.5倍の重量でベンチプレスを行うことが可能になるのだが、競合の多い分野では才能は前提になる、としか言いようがないのも確かだ。

才能を否定する著者が推すのが「目的のある練習」である。特徴は以下に挙げる。

  1. はっきりと定義された具体的目標がある

    • うまくなりたいといった漠然とした目標を、改善できそうだという現実的期待を持って努力できるような具体的目標に変える

  2. 集中して行う

  3. 目的のある練習にはフィードバックが不可欠

  4. 目的のある練習には、コンフォートゾーンから飛び出すことが必要

このアイデア自体は良い訓練を考える上でベンチマークとなる考え方だろう。

このような練習を積むことで、プレイヤーは心的イメージを獲得する。心的イメージは特定のジャンルにおける高度なパターン認識能力であり、様々な局面で最適なパフォーマンスができるようになる。これは何となく腑に落ちる話で、最初に出した『はねバド!』9巻ではこのような台詞がある。

“センス”は別モノだね
センスとは微妙な感覚を掴む心の働き
これは主に幼年期からの訓練がモノを言う
育成次第で身につけることが可能な領域
(強調引用者)

濱田浩輔『はねバド!』(9)

「微妙な感覚を掴む心の働き」は高度なパターン認識能力と近似していそうだ。いわゆるセンスが心的イメージと同じようなものだろう。

確かにセンスは育成次第では身につくものだが、身につけるための練習は決して楽しくない。それどころか、練習が楽しいと思っている一流プレイヤーはいないという。それでも彼ら、彼女らは練習を続ける意欲を持つ。上述の台詞は主人公の母親の独白だが、この台詞に続いて「でもあの子(娘である主人公)には意欲があった」と続く。『はねバド!』の才能観は本書とかなり近いところにありそうだ。

では、意欲を生み出すにはどうすれば良いのだろうか? という問いにはかなり弱腰だ。能力が高まるほど、能力を使うことを喜ぶようになるということは述べられるが、本文でセルフ突っ込みを入れているようにこれは自己淘汰の結果に見える。つまり、生まれつき練習に何かしらの快を感じる人だけが何年も続けられることになる。となるとこれは単純に「意欲が成果を左右する」という話に見えて、結局のところ意欲こそが才能なのではないか、という気持ちになる。意欲を後天的に変える方法をうまく説明できていないことが本書の弱みでもある。

ではなぜ才能をこうまで否定するのか考えると、現代の資本主義が能力主義という建前とセットになっているためなんじゃないかと思う。先天的な差はほとんどなく、ただ努力の差によって能力の差が生まれるという信仰は格差を肯定する理屈になりやすい。能力の低い人間は怠けた結果というわけで、それは多くのアメリカ人にとって受け入れやすいものだ。しかし実際には、能力主義を奉じた本書の記述を信じてもなお、成果は運や環境に左右されるわけだ。良いフィードバックを与えられる教師に出会えるか、意欲を持てるかというのは生まれた場所によって大きく異なる。

本書につきまとう能力主義という信仰は正直首を傾げたくなるものだけれど、上述したように目的のある練習とか、心的イメージとか、部分的には能力開発には使えるものだろう。これらは昔の自分を超えるためには有効な手段だ。ただ、世の中にはたくさんの競合相手がいて、彼らも当然努力するわけだから、そう易々と人に勝てるわけではない。「一流」というのは二流や三流がいてこそ成立する相対評価なのだから、やっぱり「超一流」になるのは運や環境といった努力で変えにくいものだし、原因を努力に帰するのは論理ではなく信仰だよな、と思った。



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