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GENJI*REDISCOVERED       今日の源氏 『光る君へ』 18

995年の夏、
宣孝が四年務めた「筑前守」「大宰少弐」から京に戻り、為時邸に土産を持って来た宵の宴。「なにごとも経験じゃ」って宣孝のことば… ?「経験(けいけん)」は、明治時代に出来た言葉では…。
みやげの唐の酒とか薬とか。「きっと似合うと思ってた」紅とか。
まひろに「打てば響く女になたなー」と。でも、その素質は以前からあって。響く…と思うのはもう子どもではなくなった…と言う宣孝の自分の認識の変化によっての事-結婚(史実)への伏線だろう。
まひろは「宋の国のこと聞きたい。」と(学問での憧れかららの)異国の話し聞きたがる。『科挙』のことを聞き(身分に縛られない実力主義の)「そんな国に行きたい。」とも。
まひろの「宋の国へは…どのくらい時間がかかるのでしょうか」の質問。
また…「時間」は、あきらかに「明治の造語」。 違和感レベルでなく。
「とき」とか「いく日」とか「どれほど掛かる」とか言い方いくつもあるのに。脚本の問題?「大石本」には「現場」逆らえないのだろうか…。「文語体で…」とは言わないが、「考証」しても『校正』しないにかな、NHK…。
この頃の狂言回し及び自体補足説明役の(どこにも出入り自由的)道綱、
なぜ「関白」(伊周に)決めないのかなーと。公卿はみな「中宮が出すぎ。」と不服。「帝の周りの皆が若すぎ。」「順当に道兼が継ぐべき。」と。
帝「こたびは伊周に道かねにいたす「右大臣」をさしおいて「内大臣」を摂政に上げるのは。公卿の心が別れるのは好まぬ。」と。もっともなご判断。
意のままにならぬ帝への苛立ちを中宮にぶつける伊周。「これでは父も納得されぬ。」「何のために嫁いだのか」と。
定子中宮は「帝は、兄上が摂政になられる事(による公卿達の反感が)不安なのです。」「人望たりぬ。精進くだされ」と、兄に。
傍務めの清少納言に「帝も兄上どちらも大切」と。
紫宸殿、帝の詔で、道兼が関白に。 は、道家逝去の17日後。
道兼が道長に礼「荒れていた自分を救ってくれた」「右大臣にするから補佐を」と。
清涼殿、帝前で慶賀奏上の道兼倒れる。  
で、セットのお話。 さすがに今回のアングル『清涼殿』の母屋と「廂」
の間に『蔀』がちゃんと付いていて、上にあげられている。
「石山寺」では全て省略されていた「蔀」。これが無くては時代感が希薄。
という『蔀』が『源氏物語絵巻』現存の19図には描かれている画が無くて…。「国宝本」ではどう描かれていたのか知りたい事の筆頭の1つ。
病床に伏せる道兼、くすしを伴って来た道長に「近づくな」「疫病だ」「出ていけ」と。道長はともかく…薬師帰っちゃう。なに?これ。道長は御簾の外に控えて、薬師には(ご)投薬くらいさせれば良いのに。やはり「本」の問題なのかな。貴人にお仕えしたこと…とかないから、この辺りの人の使い方、仕えかた、判らない、分からないのだろうか…。
看病を追い返した道兼が「真言」唱えてる。で「浄土に行こうとしておるのかオレ」と自問自答…「こんな悪人が。」とから笑い。で噎せて、いたたまれず-立ち去りがたく立ち聞きの道長、御簾をくぐって抱き抱える。
道兼35歳 慶賀から7日で亡くなる。 当時だったら、たぶん、病人の周りでは、「加持祈祷」が行われていたでしょう、次の「摂政」さまなのだし。
成り行きでは、「呪詛」とか「祟り」とか「毒を盛られた」とかの反響もあっただろう…に。強烈なお騒がせ役の道兼すんなりの(いい人?で)退場。
高科邸、母貴子、伊周、隆家の三人。いよいよ自分たちの時代が…と酒宴。
道長、やる瀬なく寝転んでいる。柱の陰から見守る倫子。
為時とまひろ「仇とはいえ、これで良かったとはいえぬのう。さぞや無念であったろう」。まひろは「罪も無念もすべて天に登って消えますように。」と琵琶を弾く。 (夏の宵)
「その一月で大納言以上の公卿が死に絶える。」ナレ。=残ったのは、伊周と道長。
東院に呼び出された道長と倫子。「次はおまえよ」と説得。自分はその気なし。という道長。今のままで良いという倫子に「そなたは黙っておれ。」と
詮子。「伊周の世になったら私たち終わり。」「ウツケもの!」と。
一方、高階邸だは、伊周主宰の宴。 実資は欠席。ここら辺の「史実」、
「本」にもいかされている当時の公卿達の「日記」の記載からのプロファイリングは、ドラマ以上に実におもしろい。
道隆はしゃーしゃーと「皆さまのご意見をしっかり聞くこと父より…」と大嘘を平然と。自らお酌にまで。 …今にも伝承される「料亭政治」。
一条帝と定子、「これでどうどうとそなたの兄を関白に出来る」と。
実資「これでいよいよ伊周か」「よろしくない流れだ」と。
師四納言と呼ばれる面々の「これで皆の承認とりつけたな」に、行成は一人道長押し。斉信に「自分はあつかましいのがウリ。」と言わせ、公任には「道長本人にその気はないしなー」と言わせて。
まひろの家にキキョウ・清少納言、中宮さまから賜るりましたと唐菓子。
ー当時、一般的ではなかった小麦粉をこねて油で揚げたもので「梅枝」「桃枝」と呼ばれたものの再現。「贅沢なものを。」とまひろ。
「次の関白さまはどちらに」って話しばかりで「うんざりして」逃げて来た。と清少納言。「伊周さまではないのですか」というまひろに、「伊周さまと道長さま…って、道長さまご存じ?」と。ウイカ納言、想像されている
清少納言をよく演じている。
「よく、存じあげないのですが、その道長さまの政の才は?」とバッくれて聞くまひろ。「中宮さまの望まれた螺鈿の棚が贅沢だと却下したのよ!」に思わず笑うまひろ。に…ウイカ納言、ここで笑うか?!と。
「あの人、人気ないんだ…」と知れた近況にちょっと嬉しいまひろ。
弟惟規君帰って来て、この頃学生の間で話題の『新楽府』の話。それは、
唐の天子の諫官-左拾遺になった「白居易」が809年に作った50首の
諷諭詩(唐代のさまざまな社会現象を対象に政治・社会を批判をする文学として書かれた)。「政への批判…」という事にまひろ惹かれるが、弟君はもちろん、父も宮中の所蔵にはあった…程度、内容知れずで…。後に『紫式部日記』に、彰子への講読のことが出て来る『新楽府』である。
東院、夜の清涼殿に。侍従がお休みですというのに、お主上に直訴と。息子である帝、御帳台に。 「夜着」の御姿や東院の裳の姿、見事。
「関白を誰に」いえ、「おそれながら」伊周はダメを言いに。「(兄)道隆は横暴で公卿の信用を失いました。伊周はその息子、お主上を支える気持ちなどありません」と言い切り「中宮に騙されている」と思うところを吐露。
帝は「道長は考えたことない」と。「(道長)姉として(帝)母として、
野心なく、優しく、自分が前に出たがる者ではない→道長なら、お主上に
寄り添う関白になりましょう」と。「伊周」押しの帝に、「母を捨てて妃を取るおつもりか」「なんでも関白の、いいなりになる心配」と言い立てて、
「(そうであった-自分の父兼家にしてやられた…円融)父帝の無念、他人に操られることなく、政をご自身のものとし、牛耳られるな!」と母院。
皆の予想に反して…「道長」が『内覧』に。それまでの内覧を取り上げられて荒れる伊周、定子の御殿に来て、あたりちらす。
「こうなったら、(あとの手立てはただ一つ)御子をうめ!」と妹に「モラハラ」が「パワハラ」で「マタハラ」。 …三浦伊周翔平、見事な演技。 
いずれもが板挟みの… 辛い帝。傍に居てくれと、辛い中宮に。
宮中の、主導権争いとは別世界の為時の家、 もう7月=秋に。
サワ「お別れです」と。父が肥前守赴任で付いて九州に行くサワとの別れ。
『日記』『歌集』に出て来る「友」…「鳴き弱る籬の虫もとめがたき秋の別れや悲しかるらむ」がサワさんの歌だった。…という事になる。
別れを嘆くサワの髪の毛-後ろ姿、見事。
一月後、道長、右大臣に。 (…って史実、記録、との日取りの設定……)
土御門家、倫子と穆子、「詮子女院さまをこの家で引き受けたから。」と。帝が道長を「関白になさらなかったのは、母と妻に気をつかわれて。」
でも「内覧で右大臣は、政権の頂き。」やったー!と婿の栄転を喜ぶ・
もう一つの「源」氏、道長妻明子の兄・俊賢「道長は、ただものではない。
これほどの心意気の方とは思わなかった。こらからは道長さまだ。」と。
「これから」を独り考える道長。
「あなたは、よりよき政をする使命があるのよ。」「政によって世の中を変えてくのを死ぬまで見届ける。」と言ったまひろの言葉を、思い出して。
二人それぞれ、まひろ、六条の廃園に居る。 そこに道長も来る。
「昔のおのれに会いに来たのね。」は、もう紫式部になったまひろ。
「でも今語る言葉は何もない。」
あの約束の時、約束した場所に、お互いの気持ちを戻し-確認がとれた。
という事でしょう。よかった。
ドラマの筋-展開を追う事…でいっぱいいっぱい…みたいなこの頃。
いろんな意味でいいのかな~とも思いつつ。
「画像」は、「唐菓子」の一覧から。

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