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もう一度カメラの話をしないか? 前編

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もう一度カメラの話をしないか?   その1 ロバートフランクの大回顧展に刺激されてこのタイトルが登場した。われわれは写真表現の未来について考える時期が来たのである。

清里フォトミュージアムのロバートフランク大回顧展は9月末まで開催されている。その写真展のタイトルがもう一度写真の話をしないか?なのである。それにインスピレーションを得て私の次のノートのタイトルをこのようにした。もう一度カメラの話をしないか?である。

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もう一度カメラの話をしないか?   その2 ウォーカーエバンス@ワークから学んだことが非常に大きかった。

昔ニューヨーク近代美術館で膨大な写真のコレクションを研究していたときの話であるがプリントばかり見ても疲れるので図書館にある好きな本を読んでいた。その中の1冊にウォーカーエバンスの仕事について書かれたこの本があった。これは 1種の資料集なのであって何十年にもわたって真面目な仕事をしたウォーカーエバンスの仕事ぶりが実際のデータでわかるようになっている。

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もう一度カメラの話をしないか?その3   ビルカニンガムのクローム仕上げのニコンFに50ミリ 1.4。5番街とブロードウェイの交差点で彼といちどだけ赤信号の間に立ち話をしたことがあったな。1983年のことだった。

1983年の春のことだったと思うけど、私は8インチ× 10インチのデアドルフの大型カメラを持ってセントラルパークを撮影していた。本当のことを言ってしまえばカラーフィルムを使いたかったのであるが、当時は中曽根の行政改革があって我々は、芸術家のギャラがカットされていたので、カラーフィルムがかえないでモノクロのトライエックスを使っていた。

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もう一度カメラの話をしないか?  その4. ロバートフランクがレッドパージされた旅行中の3台のライカ。アーカンソー州の田舎町でフランクが地元警察に不審者として逮捕され2 3日豚バコでお世話になった。

ロバートフランクはスイス出身のユダヤ人である。だからスイスドイツ語を使う。アメリカに来て外国人として初めてのグッゲンハイムフェローシップを受けた。それで中古のセダンを手に入れて3台のライカを積んでアメリカ中を旅行したのである。後にこのプロジェクトがアメリカ人として歴史に残るフォトドキュメンタリーとなったわけだが、当初この版アメリカ的な写真集をアメリカで出版をして行ける会社はなかった。それがフランスで発行されることになったのだ。その1連の撮影中の大旅行にあろうことか撮影中にアー

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もう一度カメラの話をしないか?その5. Walker Evance@Workを真似してChotoku@Workを制作した。あまり売れなかったので約半数が裁断になってしまったそうです。

ニューヨーク近代美術館でアメリカの現代写真をいろいろ研究して日本に戻ってきたときに私の記憶に深く残っていたのはウォーカーエバンスの仕事を紹介したウォーカーエバンス@workだった。ウォーカーエバンスの場合は各種のカメラをその目的に応じて使い分けていた。これは表現としてエバンスのカメラ選びが正しかったと言う意味である。私の場合はもっと気まぐれでレベルがずっと低いから各種のフォーマットのカメラあちこちに手を出してカメラと遊んでいたに過ぎない。

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もう一度カメラの話をしないか?その6 リーフリードランダーのライカM2そしてハッセルブラッドSWに移行するまでの歴史を分析してみた。

写真家はカメラなしでは何にもできません。手にカメラを持ってこそカメラを持った男としてその存在を地平線から吸い上げて見せてくれる。だから写真家は怒りを持つ必要はないけれども視神経を正常に張り巡らしている必要がある。ニューヨークの写真家リーフリードランダーは私がかつて最も敬愛する写真家であった。ロバートフランクの場合はすでに巨匠になりすぎてしまったのでフットワークが重いのである。リーフリードランダーとはヨーロッパで会ったことがあって、私の作品も見てもらったことがある。そのとき彼は

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もう一度カメラの話をしないか? その7 エルスケンのクロームのライカM2 。カメラにフィルターもフードもつけないのがエルスケン流。

1番最初に手に入れた写真集がエルスケンのスイートライフであった。1967年に写真評論家福島Tatsuoさんのお宅でその写真集を見せてもらって感激した。それでその翌日に銀座のJena書店にスイートライフを買いに行ったのであった。ハードカバーの大きくて厚い写真集であった。7000円位したと思うから大変高い本だった。その本が魅力だったのは印刷がグラビアプロセスであったことだ。sweetライフは別の出版社から後に再発行されたのであるが、エルスケンの希望で日本の印刷所でグラビア印刷であ

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もう一度カメラの話をしないか? その8. アンリカルティエブレッソンのブラックテープが貼られたライカM3それと彼が人生の最後に使ったペンタックスのコンパクトカメラ。

ブレッソンはスナップ写真の天才である。高校生の頃に朝日新聞社が発行した安いほうのブレッソンの写真集を手に入れて非常にびっくりした。そのブレッソンのスナップショットのテクニックにびっくりしたのではなくて、そこに写っている戦前の本物のヨーロッパにびっくりしたのである。私は実際にはパリに行かないでオーストリーのwinに7年と半年ほどいたのであるが、最初のヨーロッパのカルチャーショックというのは実にブレッソンによって私にもたらされた。言い換えればブレッソンはいきなり私の後頭部を手にし

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もう一度カメラの話をしないか? その9 ウィリアムクラインがニコンからライカへメインカメラをシフトしたのは大した意味は無い。しかしニコンのトップがロバートキャパは知っていてもウィリアムクラインを知らなかったのは大きな魚を逃したようなもの。

カメラが写真家である。写真家がカメラである。これは実は大切なポイントである。超有名な写真家がどのようなカメラを使っているかと言う事は電通や博報堂に何を何億円ものお金を無駄に捨てて広告を打つよりもよほど効果的なことである。広告でメディアを買うことができるが、それは代理店の儲けになるだけで戦闘的なプロパガンダにはならないと言うことを関係者はもっとよく知る必要がある。

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もう一度カメラの話をしないか? その10. Joel Sternfeldの初期のiPhoneによる写真集がSteidlから出版されて世界は変わった。

ドイツのゲッチンゲンと言うのは小さな退屈な街である。オーストリアウィーンに住んでいた時はゲッチンゲンは私にとってはソーセージの名前だった。ヨーロッパのドイツ語圏はどこでもそうであるがソーセージは主要な食品であるから自分以外の街の名前を特定のソーセージにつけるのである。だからwinで見ればフランクフルトのがフランクフルター、ミュンヘンのがミュンヘンナアであった。逆にドイツの各国からwinのソーセージを見た場合これをウィンナーと言うのである。そんな具合で私の場合 winに長くいた

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もう一度カメラの話をしないか?その11  アンセルアダムスの名作ハーフドームを撮影したハッセルブラッドはあまりシャープではなかった。

アンセルアダムスと言うと世界で1番有名な風景写真家で、大型カメラをステーションワゴンの上に乗っけて撮影ステージからヨセミテの山を見ているような、言い換えれば写真の素人が憧れるような撮影スタイルをする写真家である。私がアンセルアダムスを世界的なレベルの写真家より下ちょっとワンランク下に評価しているのは華麗な風景写真家であるのがその理由だ。

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