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前世鑑定における雑感②


 この話の続き。

 個人的に検証とか確認ができるわけではないので考えるところでもありますが、輪廻というシステムは実際に存在するのかどうか現状では判然としないものでもあるように思えます。が、勝五郎再生記聞のようなものもあり、頭ごなしに否定するものでもないようにも思います。
 わたし自身かつては前世少女とされるものであったりもしましたし、実際に物心がつく前から記憶していた物がないわけでもありません。しかしそれらに関しても、もしかすると親類が見ていたテレビ番組や読んでいた書籍などから知らず知らずに影響されていただけかもしれません。それに関しての真偽を探るための検証は難しいです。なにしろ、わたしは幼少期より虐待をうける身でもあったため、テレビなどを見させてもらえたりするような環境にはなかったのですから。
 また、当然ながら皆が皆「前世はアトランティスの姫巫女だった」とか「前世は神仙界の神仙だった」というような「自分は選ばれし特別な存在であった」となるわけではありません。今現在を照らし合わせ考えてみれば分かりやすいはずです。皆が皆石油王や王族に生まれつくわけではないですからね。そういった類いの位置に生を享けるということは稀であるはずです。
 そういった背景も含めた考察をしたり、あるいは鑑定をしたりしています。
 また、そういった中で、稀に「前世がない」ような方もいらっしゃるようです。端的に言うならば今生で人間初体験というような状態に相当するものです。ちなみに事例は多くはありません。が、極めて稀少というわけでもありません。
 当方では前世鑑定を令和五年七月からはじめさせていただき、同年九月現在でだいたいざっくり三十件ほどのご用命をいただいております。この内、先述しました「人間初体験」な方はざっくり三名様ほどとなります。およそ1/10ほどの確率でしょうか。多くはありませんが少ないわけでもないかと思います。
 よく、輪廻の数の多さをアピールする方も界隈には散見できるかと思います。中には億回数で主張していた方もいらっしゃって草をはやしたものです。さておき、個人的に、輪廻は逆に回数の少ないほうが個として優秀であるだろうと認識しています。なぜならば、われわれすべての魂は最終的に神とされる存在のもとへ帰属するものだと認識しているためです。われわれは輪廻を繰り返し、必要とされるデータを集めて学び、神とされる存在のもとにそれを捧ぐものであると思うのです。ゆえに輪廻は回数がやたら多くあるひとは、学ぶ能力に欠いているのではと考えます。菩薩などは別ですよ。菩薩は自らの意志で輪廻を繰り返しているとされますしね。でも菩薩はその回数などを誇示すしたりもしないでしょう。する必要もないのですから。

 なお、わたしの認識は仏教によるものではないので、念のため。

 人間として生を得たのが初である、というような方の場合、生まれ持つ気質などとして、例えば「なぜなぜなんで?」という疑問を持ちやすく、伴ない知識欲が強い、どこかへの帰巣本能が強い、現界での諸般に執着が薄い、などがあるかと思われます。 
 で、さらに言うならば、前世視をする際、全体的には複数枚並べられたスチール写真もしくは活動写真(サイレント映画)であるという話は昨日の話で触れたんですが、人間初チャレンジな方の場合は別となるんです。

 前世とされるものに関する理解は、わたし的には「終わった話」です。よって、サイレント、つまり「音」がないことがほとんどです。無音に近い状況でも、ある程度は想像ができたりすることもあります。風音や水音とか波音とかですね。 
 しかし視えたものが前世とされるものの映像でない場合は「終わったもの」ではないからか、比較的鮮やかなものとして視えたりします。
 なお、輪廻の回数に関わらず、生あるもの、あるいは存在するものであるならば誰しも魂の始原たるものを持ちます。それはまた「核」として個の内に宿ります。例えるならランプや提灯の真ん中にある光源です。それを覗かせていただいた際の風景を文章可、あるいは色彩を顕在化させたメニューもあります。

https://ssl.form-mailer.jp/fms/9e553b7a796351

 文章化していくメニューは今現在はココナラのほうでのみのご案内となりますが、近々別メニューとしてもご案内できるようにしていきます。



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