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狂人日記(魯迅『吶喊』から)


魯迅 著
竹内好 訳
岩波書店1956

わけもわからずに、ぼくは魯迅を読んできた。

初めて読んだのがいつなのかは、はっきりと覚えていないが、小学校の国語の授業だったことは確かだ。近現代中国最大の文豪だから、当然何本もの名文が教科書に採用され、中国の義務教育を受けていれば子供の頃からそれらに親しむことができた。記憶が正しければ、最初に読んだのは小説「故郷」の一部を抜粋した「少年閏土」で、その次が「宮芝居」(中国語題「社戯」)だ。中学校になると「百草園から三味書屋へ」が早くも一年生のときに登場し、ぼくは幸運にも日本で名師からこの文章の精読の手ほどきを受けた。この三編に共通するのは、いずれも少年時代を回顧した内容で、小中学生でもなんとか意味をつかめる牧歌的な描写に溢れる文章だったということだ。「故郷」は全文を読めば牧歌どころか挽歌と言ってもいいようなものだが、「少年閏土」の部分だけを取り出せば、確かに美しい思い出だと言える。実際、教科書にある練習問題もこれらの文章を単なる美文として扱い、描写を学ぶように誘導していた。

しかし、中二から高校になると、思春期の子どもたちの不安定な心に合わせるかのように、教科書に採用される魯迅作品は180度に変調する。「『友邦驚詫』論」、「『フェアプレイ』は時期尚早であること」、「劉和珍君を紀念して」などなど、敵と見れば一太刀に切り伏せる闘争心、それでも倒れなかったら傷口にこれでもかと塩を塗り込む冷酷さ、そして、「私は最大の悪意で中国人を推測することを恐れない」と断言する同胞への苛烈な批判、文章は紛れもない名文だが、読んでいて快感を覚えることは一度もなく、むしろあまりのダークさにいつも気が沈んでしまい、いつの間にか眉をひそめるようになった。

そうして、少しずつ反感を積み重ねてきたぼくは、「灯下漫筆」を読んだときについに我慢できなくなった。この文章で魯迅は数千年の中国文明を「自分は人から虐げられるが、別の人を虐げることができる。自分は人に食われるが、別の人を食うことができる。一級一級と順々に下の階級を制馭しており、身動きもできないし、身動きしようとも思わなくなっている」ものだと総括し、そしてラストで青年へ檄を飛ばした。

この人肉の饗宴は、今日なお張りつづけられており、多くの人々は今後もずっと続けようと考えている。これらの人食いどもを掃蕩し、この宴席をひっくり返し、この厨房を叩きこわすことこそは、今日の青年の使命である!

なるほど、燃えやすい性格の若者なら「うおー!魯迅先生すげー!」となるかもしれない。しかしぼくにはわからなかった、なぜ魯迅は「青年」ばかりに期待し、まだ壮年期である自分と同世代の人々に一瞥もくれないのか。もっとはっきり言えば、立ち上がった青年を待つのが流血を伴う茨の道と知りながら、なぜ魯迅先生自身が立ち上がらずに、若者にばかり使命感と責任感を求めるのかーーだいたいこんな意味のことを、ぼくは誰に向ければよいのかわからない義憤を込めて、教科書に書きなぐった。

書きなぐったはいいが、当時のぼくは、まだ今のように静かに怒りを燃やし続ける術を心得ておらず、文字に形を変えた義憤を眺めているうちに、気分がおちついてきてしまった。結局その義憤は、教科書にそのまま閉じ込められてしまい、魯迅のほかの文章を読むときにも呼び覚まされず、2つのテキストを突き合わせて読む基本中の基本にさえ思い至らなかった。今思えば、実に残念である。もしあの頃導いてくれる大人がいれば、或いは今のぼくがタイムスリップすることができれば、きっと高校生のぼくにこう教えたのだろう。「魯迅がなぜそうするか、答えは彼がはっきり書いてある。『狂人日記』の中でね。」その一言だけで、ぼくはもっと早くこの世のーーとは流石に言いすぎかもしれないが、少なくとも中国のーー真実を知ることができたのに。

『狂人日記』の内容を知るには、なんといっても読んでみるのが第一だが、一言でまとめてしまえば、「私」が周りの人々が食人しているとの妄想に取り憑かれてしまい、自分も食べられることを恐れ、狂っていく過程を描いている。ここでの「食人」はカニバリズムそのものではない。作品が書かれたのは1918年、1911年の辛亥革命で数千年続いた王朝体制が終焉した中国だが、大衆の価値観が革命と同時に一新されることにはならず、王朝時代の束縛がまだまだ根強く残っていた。「食人」とは、数千年にわたって中国人の精神世界を束縛し続けてきた因習だということになるのだ。ぼくが使った教科書の解説にもそのように書いてあり、この小説は「封建的な礼教に痛烈な一撃を加えた」と称賛されている。これくらい理解できていればテストで困ることはないので、当時のぼくもこの単純な解説に満足し、これほど単純ならなぜ100年も読み継がれるのかを全く考えようとせず、「社会通念となっている伝統を批判するなんて、魯迅は勇気があるなあ」と能天気に考えていた。つまるところ、ぼく自身が単純すぎたのである。

今読み返せばすぐ気がつくが、この小説のクライマックスは食人とかそういうものではなく、自分を被害者と思い込んでいた「私」が、自身の人生を振り返り真実に気づく次のシーンである。

四千年来、絶えず人間を食ってきたところ、そこにおれも、なが年くらしてきたんだということが、今日やっとわかった。兄貴が家を管理しているときに妹は死んだ。やつがこっそり料理にまぜて、おれたちにも食わせなかったとはいえない。
 おれは知らぬ間に、妹の肉を食わせられなかったとはいえん。いま番がおれに廻ってきて……
 四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。

因習批判に言い換えるのなら、「私」は因習に苦しめられた人間であると同時に、因習が獲物を逃さぬ蜘蛛の巣のように広がる社会に生まれたため、因習に育てられ、因習による甘い汁を吸ってきた加害者でもある。そのことに気づいたからこそ、「私」は自分自身が食人を断絶させる英雄になることが不可能だとわかり、作中で試みた兄への説得を繰り返すような無駄をせず、ただ最後に「子供を救え…」と弱々しくつぶやくことしかできなかったのである。そして、間違いなく「私」に自分の姿を重ねていた魯迅も、辛亥革命後の混乱と革命を唱えてきた者たちの腐敗を目にし、20代から抱いてきた中国を一新させる理想が、少なくとも自分のような因習に囚われた世代では実現がありえないと知った。だから魯迅は、「青年」に託すしかなかった。「灯下漫筆」にとどまらず、魯迅の各文章で繰り返された青年への檄は、大人が安全なところで血気盛んな若者をアジる無責任な言説ではなく、自分の世代に絶望した思想家と革命者が、一縷の望みを繋ごうとした渾身の叫び声だったのである。

より鋭敏な頭脳の持ち主なら(例えば私の妻)、或いは魯迅のテキストにより習熟していたら、高校生でも十分ここまで気づくことができるが、両方とも持ち合わせていないぼくは、而立の歳を過ぎ、魯迅がかつて8年間過ごした日本においてようやく偉大なる先哲の絶望に気がつき、そしてその瞬間、血の気が引いていくのを感じた。ぼくは、完全に間違っていたのだ。

当時のぼくは、大気汚染と名状しがたい違和感から逃げるように北京を去り、日本でしばしの安寧感に浸り、そして安全な場所から中国を眺め、折に触れては中国の出来事や国民を批判し、次のようなことを書いたりしていた。

「中国国内にいる一部の知り合いが、抑圧に満ちた不自由な生活を送っているのを自覚しながら、その生活を強いる体制と社会を擁護することが、ぼくには理解できなかった。しかし、よくよく考えてみれば、ぼくだって数年前までは、中国のことを批判されると『でも少なくとも昔よりはマシだ』と論点をすり替え、それで反論した気になっていた。今振り返ると、あの頃のぼくは自分が身を置く社会と国家が批判されるのを恐れたのだろう、それはすなわちその社会と国家を構成する一部としての自分が批判されるのと同じだと感じたからだ。」

こんなことを書けば「一部の知り合い」の顰蹙を買うのは目に見えており、ぼく自身それを狙っていた節があった。しかし、ぼくは中国以外で生まれ育った人間ではない。魯迅以上に日本に長くいるとはいえ、ぼくは頭から爪先まで中国生まれの中国育ちであり、どうあがいても、中国の一部であることは否定できない。今の中国の風潮、価値観、思考回路などなど、ぼくが嫌うそれらがごった煮になった大鍋のなかから、ぼくという人間が煮詰まれたのであり、外から中国を眺めて批判することなど、原理的に不可能だったのだ。

この気付きはショッキングだった。打ちのめされてもおかしくないくらいにショッキングだった。幸い、同じ経験をした魯迅がいてくれた。自分自身にさえ絶望した魯迅は、それでも筆を執り書き続けたのである。それなら、絶望と言いながらも、実は彼はどこかで希望を持っていたのではないか、絶望は批判を展開するための単なるレトリックではないか、そう思いながら、ぼくはさらに魯迅を読むことにした。
(続く)


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