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ぼくのなかの日本(第18回、魯迅のおかげ)

魯迅のおかげ

日本語でコミュニケーションを取るのに、特に不自由を感じなくなったのは、おおよそ日本に来てから1年後、ちょうど転校をしたころだった。新しい学校への適応にとっては最高なタイミングだったが、家庭では日本語の上達による新しい課題が起きていたーーぼくが日本語で親と話すようになったのである。

大人になってから勉強し始めた外国語を、完璧にマスターするのは、よほどの語学のセンスの持ち主でなければ、なかなかどうして困難である。しかし子供は違う、勉強するというより、言語機能を司る脳のどこかの成長に伴って、新しい表現を使えるようになり、その新しく追加された部分を、外国語が占めていくのである。そのため、ぼくは「自分の言葉」として、ごく自然に学校の出来事を話しているつもりでも、親からは中国語と日本語がちゃんぽんになった奇妙な言葉に聞こえ、そのことに何度となく眉をひそめたのである。

そして、ある土曜日の午後、自宅でマンガを読んでいると、父に呼ばれた。

「マンガ、おもしろいか?」
「おもしろいよ!お父さんも読む?」
「いや、今はいい。それより、相談なんだが、中国語の授業に行ってみないか?」
「え?なんで?」
「なんでって、中国語を忘れたら困るだろう。まあ、もう決まっているから、明日から行け。午前10時集合、遅れないように。これからは毎週日曜午前は中国語だ。わかったか?」

わかったかと言われても、そんな一方的に決めた話を押し付けられる身にもなってくれ、どこが相談なんだーーというのが、正直な気分だった。今までなにも言われなかったのに、なんでいきなり日本で母国語を勉強しなきゃいけないんだ、しかもみんなが遊んでいる日曜日に。思い当たる節といえば、先週両親の友人がうちに遊びに来て、「うちの子ったら、叱ると日本語で口答えするのよ。こっちはその日本語がよくわからないから、どう返事していいか迷っているうちに叱れなくなっちゃうの。もう本当に困る!」と愚痴ったことくらいか。くそ、あのおばさん、許さん。

しかし、いくらいやでも、親の命令に逆らうほどの勇気は小6のぼくにはない。次の日渋々荷物を持ち、バス、地下鉄を乗り継ぎ、教室のある名大インターナショナルレジデンス東山に向かった。日本に来て最初に暮らした思い出の場所だが、まさかこんな形で、しかもこんなすぐに再び行くことになるとは……

さらに意外なことに、教室についてみると、ぼくを含め5人の中国人の子供が来ていたのだが、そのうちの1人が最初の小学校の同級生だった向井くんだ。向こうもぼくを見て驚き、二人して「お前も来てたの?」と日本語で話し、「なになに、二人って知り合い?」とほかの3人の女子が、これも全員日本語でぼくたちの会話に入ってきた。小5から小6までの5人の中国人の子供がおしゃべりしているのに、飛び交うのは日本語。今から考えれば、「そりゃ中国語を勉強しろと親が考えるのも仕方がない」と納得できるが、あいにく、その環境に身を置く子供は、ただ単におしゃべりをしているだけで、「外国語」や「母国語」といった意識が全くないのだから、いくら言っても親の苦心が伝わらないだろう。

そんな困った子どもたちに、あの教室の先生はどう対応したのだろうか。始めは5人のうちの1人の母親で、中国でちょうど小学校の国語を教えていたおばさんが先生がしてくれた。これ以上ないくらい適任だと思われていたが、なぜかすぐにやめてしまい、今となっては顔すら覚えていない。その後任としてやってきたのは、名大で中国文学を専攻する博士課程の男性だ。授業にはいつも無個性なワイシャツで表れ、文学の話になると興奮してメガネを外し胸ポケットに押し込むのがクセだったその先生は、初日に文系博士にありがちな気怠い表情で、5人にこう宣言した。

「みんなは、中国の小学校で使う国語の教科書を使って授業をしているよね?今までは順番通りに一課ずつやってきたと思うけど、今日からは形を変えようと思う。読むのは、魯迅だけだ。ほかの有象無象が書いたものは読まなくていい。魯迅だけで十分だ。」

例えて言うならば、海外在住の日本人の子供向けの国語教室で、「今日から夏目漱石しか読まない」と宣言したようなものである。ぼくたちが使っていた教科書に載っていたのは、「百草園から三味書屋へ」というタイトルの随筆で、魯迅が幼少期の生活と私塾の授業の様子を回顧したものだった。数多ある彼の舌鋒鋭い論評やダークな小説と比べれば、確かに読みやすい部類に入るが、それでも小学生には理解できない表現が多数出てくる。ぼくたちのような日常会話で日本語を使う中国人にとってなおさらのことだ。「大丈夫か」と誰もが不安に思ったが、「でも…」といっても、先生はこれまた文系博士にありがちなぼうっとした表情で、ぼくたちの抗議を聞いて聞かぬふりをした。

微妙な雰囲気で始まった授業だが、さすがは博士である。どうやら先生は中国国内でも文学を研究していたらしく、子供向けと思われていた「百草園から三味書屋へ」の真意を余すところなく講じてくれた。残念ながら話の内容は覚えていないが、5人とも聞き入っていたことは間違いない。魯迅ってこんなに面白かったのか、これならずっと魯迅でもいいやと思い始めたとき、先生は爆弾を投下した。

「これで今日の講義は終わり。教科書の後ろの宿題をやって、そして全文暗記してきなさい。」

「百草園から三味書屋へ」は、小学校の教科書に載るほど短いとはいえ、2000字以上はある。それを全文暗記してこいというのである。さすがに納得できずに「えー?!」「先生それはひどい!」と口々に抗議すると、先生は意外そうな表情をして、「だって魯迅だよ?当然でしょ」と言い残し、さっさと教室を出ていってしまった。

さて、どうしたものか。親に言いつけてPTA経由で苦情を入れることはできるはずがない。というか先生の名前さえ聞き忘れてしまった。どうすればいいのか、地下鉄とバスに揺られながら悩み抜き、出した結論は「暗記するしかないか」だった。やっぱりぼくは素直な子だったのである。

次の週、授業が始まると、先生はいきなりぼくに暗誦させた。自分では覚えてきたつもりだが、正直2000字以上を間違わずに暗誦できる自信はない、仕方なく一段落を暗誦し終わると、先生は大きくうなずき、「よし、もういいよ。合格」と言った。

「先生、まだ始まったばかりですよ?」みんながキョトンとしたのは言うまでもない。
「ああ、一段落だけでいいよ。」先生はなに変なこと聞いてるのかという顔である。
「だって、先週は全文暗記だって……」
「全文は全文だよ、でも誰だって一週間でやれとは言ってないでしょ?というかお前たち、魯迅大先生の名文をたった一回の授業で済ませるつもりか?今日も同じ文章をやるから。」

ポカーンとしているぼくたちをよそ目に、先生は再度文系博士にありがちな回りの目を気にしない無神経さで講義を始め、これまた内容は忘れてしまったが、先週とは全く違う解説だったことは、なんとなく覚えている。

こうして、2000字強の文章を、ぼくたちは1ヶ月かけてじっくり読み、魯迅の別の文章も同じようなペースで読み進めた。そして先生はまたよく作文を書かせ、原文が読みとれないほどの朱を入れて返してくれた。そんな暗記と作文以外になにをしたのか覚えていない授業を半年受けたある日、先生は珍しく嬉しそうにみんなに言った。

「みんなの最近の作文を読んでいると、すごく進歩しているのがわかる。最初にこの教室に来た頃とは比べ物にならない。今のレベルなら十分中国の同学年の子供と張り合えるはずだ。この中国語教室は一応小学生が対象になっているから、みんなが中学校に入れば来れなくなるが、私がやった形で自分で本を読んでいけば、人並みのレベルのはなるだろう。まあ、魯迅のおかげだな。」

そうか、魯迅のおかげかーーでも、先生、間違いなく、あなたのおかげでもあるんですよ。残念ながら、あなたの名前は、今も思い出せませんけど……

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