十一年続けた仕事にピリオドを打つことをめぐるいくつかの断章
一、
2022年10月26日、いやが上にもアラフォーを意識せざるを得なくなった誕生日から数日後、ぼくは十年と11ヶ月通い続けたとある仕事先を離れた。車に乗り込みエンジンを入れると、玉露を口に含んだような爽やかん気分が、エンジンサウンドとともに四肢を駆け巡った。もうここに来なくていい、もうあんな耳を濯ぎたくなるような文言を訳さなくてもいい、もう日頃の意地悪さが眉間に固着した非人間的な顔と睨めっこしなくてもいい。そうした開放感に背中を押してもらいながら、ぼくは「残酷な天使のテーゼ」のアップテンポに乗り、夜の首都高を疾走した。
思えば、この曲を含む「上がるアニソン」という全くもって芸のないプレイリストを作ったのが、一ヶ月前にこの仕事がまもなく終わることを知らされたときだった。無意識にやっていたつもりでも、開放感はどうやら一ヶ月前からぼくを少しずつ包み始めていたようである。なんてたって、これまでの仕事帰りのBGMといえば、疲弊した神経を癒そうとスローテンポな懐メロばかりを集めたものだったんだから。しかもそのプレイリストでもっと耳に残った歌詞が、
なのである。
どちらも反抗し、しかも観念的な反抗にとどまらず、果敢に第一線で戦った人たちを歌った名曲だ。しかし、彼らの勇気を讃えるのではなく、その敗北に寄り添う歌である。それらに心打たれるということは、敗北感に共鳴する心境に自分が陥っているということだろう。誰に負けたのか、今思いつくのはーー祖国、自己責任の社会、資本主義のシステムーーどれもちっぽけなぼくを一口で飲み込むリヴァイアサンのごとく巨大な力だ。それでも、負けたことを素直に受け入れ、のほほんと不感症的に生きる諦めの良さがないぼく。そのために、生きることの意義と希望を失いそうになる敗北感が、生まれたのである。
だがぼくは、反抗したことさえないはずだ。首都高疾走のプレイリストには「紅蓮の弓矢」(『進撃の巨人』の主題歌)があり、「不本意な現状<いま>を変えるのは、戦う覚悟だ」と反抗を高らかに謳い上げるが、ぼくがより共感したのは、「家畜の安寧、虚偽の繁栄」だ。これこそ、戦うことより、冷笑と皮肉を現実に投げつけるのが精一杯なぼくの姿だ。そんな人間が、身勝手にも敗北感に浸るのは、なぜだろうか。
車はそこで首都高を降りた。信号機に気を取られざるを得なくなり、思考の道筋が途絶えてしまった。
二、
2011年の年末、銀座の雑居ビルにあるこの仕事先へ通い始めたとき、東京はまだ暗かった。
地震の余波としての節電が続き、銀座駅は外の鉛色の雪空が地下にも潜り込んだように薄暗かった。朝方に行けば駅員が仁王立ちでホームレスを追い立て、夜に帰宅すればやっと客にありつけたママさんが白い頸を卑屈そうに見せた。そしてぼくは、学問の世界の孤独さが身に沁み始め、私生活では、とある大事な友人と傷害事件すれすれの大喧嘩の末、ほぼ絶交の状態になった。内も外もどん底の状態で、ぼくはこう書いた。
そんな状況で、奇跡的にも中国のニュース番組の日本語放送同時通訳の仕事をすることができた。もちろんこれも自分が見つけてきた仕事ではないが、とにもかくにも、この仕事のおかげで、ぼくは大学などで粉々にされた自信を拾い集めることーー敗北を免れることが、できたのである。それだけでよかった。反抗をする余裕も意欲もなく、それにまだ楽天家だったぼくは、祖国も世界も、いずれよくなると信じ込んでいた。
三、
汚い言葉遣いで恐縮だが、ぼくが祖国で受けてきた教育の大部分は、文字通りの「クソ」だと思う。
小五から中二まで日本にいたことと、数人の良心的な先生に出会えたおかげで、ぼくはなんとかクソまみれの状態を免れたが、それでも匂いを完全に取っ払うのにずっと苦労してきた。さらに、奇跡的についた仕事で日々接する中国の言葉たちが、日に日にドブの匂いを強めていった。それらの言葉を自分の脳によって日本語に変換し、機関銃のように口から連射させるのがぼくの仕事だ。どこかの記者が書き、デスクが修正し、端正な顔立ちのアナウンサーが読み上げ、そしてぼくを経て日本語になった言葉だ。何人もが手をかけているのに、言葉の裏にいるはずの個人はついに最後まで覆い隠され、代わりに「組織」「政党」「国家」「権力」と書かれた真っ赤な旗が、全体を棺のように包み込む。ぼくは文字通り感情を殺して、したがって自分の心を殺して、「ここは通訳としてのプロフェッショナリズムでこなしていくしかない」と、自分に我慢を強いて、あの言葉たちに立ち向かったのだ。
だから、いつの間にか、ぼくは辞め時を伺うようになった。もうほとんど決心を固め、旧正月の休暇を終えたら伝えようと思った。その矢先に、コロナ禍だ。祖国は想定外の狼狽さを晒した。その醜態に積年の鬱憤をぶつけたぼくは、上に書いた友人が問題にならないほど、一気に大量の友人を失い、しかもその喪失を惜しがるのではなく、喪失してなお、ある種の憎しみを持って彼らの後ろ姿を眺めるようになった。そして、何より憎いのが、食っていくために仕事を辞めることができず、ささやかな反抗さえもできず、クソを吐き出し続けるしかない自分自身であった。
心境は悪くなる一方だった。会話の最後をため息で締めることが実感できるほどに増えた。まだ信頼できる友人に会って生きる勇気をもらい、また友人に生きる希望を分け与えた。人間よりも動物の姿が多いところに行ったときは、いずれこの大地で朽ち果て、肉体を熊に分け与え、精神を海風に吹き飛ばされてしまえばいいと思った。敗北感は、そんな状況のなかで頭をもたげた。
でも、振り返ってみても、ぼくは反抗していないはずだ。それなら、なぜ敗北感が生まれるのだろうか。
四、
色んな人と、三年ぶりに会った。
ぼくたちは抱きしめ合い、笑い合い、称賛し合い、お互いがまだ生きていることを喜びあった。
久方ぶりの再会を果たした友人の一人に、「会えてよかったよ。おかげで生きる希望が燃え上がった」と伝え、まだ夢を追いかけているその友人は、ぼくのメッセージを突飛なことだと思わず、「よかった」と返事してくれた。
もちろん、まだ完全ではない。希望とか光とか、軽やかな気分になる言葉を口に出せる状況には程遠い。根っからのオタクではないぼくが、まだアニソンがもたらす開放感を欲しているうちは、開放感も十全のものではないだろう。それでも敗北感から、やっと抜け出せる気が少しし始めた。なんてたって、ぼくも、喧嘩別れした友人も、大事な愛する人も、みんなまだ生きていて、しかも少なくともぼくが知る限り、敗北に何度も見舞われながら、なんとかそれに飲み込まれないようにみんな悶え続けているのだから。
このロクでもない世界で、しかも個人的な見解では、決してよくなることのない世界で、生きていること。可能な限り正気を保ち続け、波のように押し寄せる敗北に流されないようにすること。それだけで、もう十分過ぎるほど反抗だと言えるかもしれない。敗北感こそがその証で、だからぼくは、敗北感でさえも、誇りに思っていいかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、車を一発で車庫入れしてから、ぼくは暖かな光が灯る玄関に入るのではなく、今しばらく車内に留まることにした。スピーカーからは、ふわふわの毛玉で心をくすぐられるような気恥ずかしさを呼び起こす、真宮寺さくらの口上が流れていた。
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