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#政党連合けやきの木 副代表報告「けやきの展望」

―冷笑主義との対決―

二つのN

 わが党はなんだかんだ結成から半年を過ぎております。めでたさも中くらいなりです。本日は、私は党員諸君に、わが党の結成に至るまでの経緯、およびわが党の任務に関する報告をいたします。

 そもそもこの党を結成した時は、半月もしないうちにすぐに荒れるだろうなと悲観的な展望をもっていました。一般に、政治と野球の話は揉めるといわれます。現実の政治においては、日米安保なり社会保障なり火種には事欠きません。些細な問題が世界観どうしの衝突となり、世界観どうしの衝突が互いの人格否定となり……といった展開を恐れていたのですが、どうも杞憂だったようです。党員諸君の熱意とネチケットに改めて感謝申し上げます。熱意とネチケット、この二つのNを今後とも大切にしていきたいです。

日本社会の2ちゃんねる化

 どうしてこの党を立ち上げたのかといいますと、冷笑主義がどうにも我慢ならなかったからです。冷笑主義という用語を用いていますが、主権者として物申す者に対して、その熱意を「お前らが頑張っても社会は変わんねーよwww」というふうに嘲笑する態度を冷笑主義と仮に呼んでいるのです。
 より詳しく知りたい方は、2ちゃんねるにアクセスするとよろしいでしょう。管理人のひろゆきからして、辺野古埋め立て工事への抗議活動をめぐり、反対派の行動のなかのささいな言行不一致を大々的に宣伝するのですから、あとは推して知るべしです(注1)。以下の記事は見出しが全然正確ではありませんが、西谷格氏は「あらゆる事象について冷笑し、茶化し、皮肉り、揶揄する。そうして揚げ足を取って、一歩引いたところで俯瞰する」一冷笑主義者の行動を批判的に見ています。

 かかる宣伝に含まれたメッセージは、「"冷静な"自分から眺めれば反対運動は何マジになってんのかばからしく思う」というものです。そもそも彼は基地建設の必要性を訴えようとしているわけではなくて、ただ反対派を"論破"したかったのでしょう、「なんだろう、ウソつくのやめてもらっていいですか」と。ここには他者に対する敬意と寛容などいささかもない(注2)。このような人間を見下す眼差しが、静かに日本社会をむしばみつつあるのではないかという問題意識を、私は以前から抱いていました。イタリア共産党の歴史的妥協路線を調べたのもそのためです(注3)。

政治はプロレスであるべきだ

 こうした傾向を打ち破るために、私はけやきの木を結成したのです。この党の目的は二つあると考えています。第一に政権交代可能な野党になること―何年先になるかわかりませんが―と、第二に政治思想を闘わせるためのリングを創り出すことです。

 私はプロレスになぞらえて説明しようと思います。プロレスラーを政治主体であるところのわれわれ国民だとすると、闘いはある一定の範囲内、すなわちリングの中で行われるといってよい。リングの中が政治領域にあたるわけです。リングを支えているのは共通の基盤で、かつて共通の基盤は戦争体験でありました。リングの上で保守とリベラルとが激しく闘っていれば、政治領域のなかに冷笑主義の介在する余地はないはずです。
 しかし、はたして現在の日本にリングはあるのでしょうか。戦争体験ですか。先の大戦を反省するより、次の大戦を回避する(注4)ことが求められる時期に差し掛かっていることは諸君もご存じのことだとは思います。「戦争」が現在進行形の問題となっているなかで、残念ながら戦争体験は政治領域を支える共通の基盤、左右すべての者が合意する共通の基盤とはならないのです。だから、わが党はまず、腐った木材を取り換えてこのリングを再建することを任務としたいのです。

党員諸君の健闘を祝す

 わが党は、「情の厚い民主主義者」たる人すべてに門戸を開いておりまして、右は自称保守反動の北野党員から、左はマオイストの主席同志までいます。真ん中はハノイ党員辺りです。残念ながら、Twitterを見ていないので皆さんの発言は追えていません。寂しい……

 私がこの三人と方向性が違うのは言うまでもないです。どうにも納得しかねるところも多々あります。特に北野党員に対しては、「この野郎、レインボーブリッジの真ん中からぶら下げて、てるてる坊主にしてやろうか」とも思う瞬間があった(今もある)ことを正直に告白いたします。逆にこの三人から見たら、私はダメ人間に見えるに違いありません。ですが、三人とも冷笑主義者ではないことは確かです。方向性の違いを踏まえたうえで、みんなでプロレスをしていく―もちろんネチケットを守ったうえで―ことは、党員諸君にとって実りある対話となるのではないのではないでしょうか。ちなみに、正式には「政党」ではなくて「政党連合」ですが、ここには方向性の幅をもたせるという含みがあるのです。北野さん、除名はない(注5)ので安心してくださいね。

今後の活動について

 今後の活動ですが、まず通話会は1か月に1回ほど開いていきたいと考えています。それからオフ会も定期的に開きたいです。実際に顔を合わせると、画面の向こうに自分の知らない世界があるということが実感できますから、冷笑主義との闘争のためにも、思想の対照のためにも、通話会やオフ会は推進していきたいと考えていますが、いかがでしょうか。

 以上が副代表からの報告です。壮大な夢物語に聞こえるかもしれませんが、私たち一人一人が全力を尽くせば、ほんのちょっとは日本はよくなると思います。

脚注

注1 ひろゆきの批判様式は突如として出現したものではなくて、日本の伝統的な思想の流れを受け継いで、そこにエリート志向を盛ったものであるといえます。丸山眞男が国学のイデオロギー"批判"の様式を次のように分析していますが、ひろゆきの批判様式との類似性を見出せます。

ともあれ、こうした国学の儒教批判は、(i)イデオロギー一般の嫌悪あるいは侮蔑、(ii)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直感的解釈を絶対化する結果となる)、(iii)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界を認める考え方、(iv)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、(v)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として反撥する思考、等々の様式によって、その後もきわめて強靭な思想批判の「伝統」をなしている。

丸山眞男『日本の思想』岩波書店、1961、p24

今回の出来事ではこの(iv)の類型に当てはまるものかと思います。しかし、雑な対比ではありますが、国学が日本の心を求めて運動・実践していたのに対して、冷笑主義は画面の中で自己陶酔する傾向にあり、この二つはベクトルが異なるようにも思います。この点については諸君の批判をまちたいです。

注2 沖縄の住民運動に関しては、野中広務元幹事長の温かな態度のほうが個人的には好きです。どのような政治的立場であれ、苦しむ人に寄り添うところから出発しなければならないのは論をまたないでしょう。基地建設に賛成であるにしても、沖縄の歴史的=軍事的条件を直視し、県民の訴えに耳を傾けることは民主主義者としての礼儀であると信じます。

注3 拙稿『ベルリングェルと歴史的妥協に関する覚書』参照のこと。今思えば、カトリック神学に関する理解の不足もさることながら、ネトウヨ(反動主義)と2ちゃんねらー(冷笑主義)との対決、およびそのための広範な民主主義者の連合といった私の問題意識が十分に反映されていないところが悔やまれます。

注4 拙稿『宵闇の現代日本』参照のこと。非常に悲観的な論調なのは、副代表がヘラっていた時期に書かれたものだからです。

注5 私は、けやきも「意見の違いによって組織的な排除を行わない」(民青規約)組織でなければならないと考えています。違う意見が嫌い、自分と同じ意見に囲まれていたいというのは政治的な自慰行為にほかならないのです。なお、わが党は民青と立場を同じくするものではないことを、念のため述べておきます。


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