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ベルリングェルと歴史的妥協に関する覚書

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けれどもときどきわれわれは告発するような口調でこういわれてきた。君たちもまた宗教じゃないか。いやそれどころか教会じゃないか。われわれが信念を持っているという意味では、これは本当である。-パルミーロ・トリアッティ


はじめに

 社会の対立と分断が問題となって久しい感がある。インターネット上では毎日誹謗中傷の嵐が渦巻いており、現実の世界でも排外主義的言説が流布している。例えば、先の参院選では参政党が議席を獲得したが、これは明らかにこのままでは日本国憲法に基づく政治体制と抵触しかねない。幸いにしてまだ我々の民主制が倒壊するには至っていないものの、事が起こってからでは遅いのである。私の問題関心は国民の民主的統合を達成する方法を探ることにある。

 この論文では、イタリア共産党が1970年代に打ち出した歴史的妥協路線、およびその提唱者であるエンリコ・ベルリングェルを主題とする。当時のイタリアは「極右・極左のテロが横行し、デモは街頭で火炎瓶を投げる。続発するストライキ、横行する脱税、外国へ逃避する資本」(『イタリア共産党史』p208)というふうに、深刻な社会情勢を抱えており、末期的といっても過言ではない状況にあった。この危機を克服するため、ベルリングェルはカトリック勢力に手を差し伸べたのである。彼がイタリアの病理をどう分析し、どんな処方箋を出したのか、この論文で素描することにする。

 ところで歴史的妥協について日本共産党は否定的である。上のリンクは日本共産党の不破氏の講義を伝える記事であるが、この記事を書いた無名氏は不破氏の発言をこう要約した。

イタリア共産党の場合は、革命路線の変更は、保守的な与党キリスト教民主党との「歴史的妥協」を狙っての産物でした。政権党と政策を一致させるため、一貫して訴えてきたNATO(北大西洋条約機構)からの脱退方針を撤回。こうして右傾化の道を進んだ結果、やがては、科学的社会主義の立場も党名も捨てて、「左翼民主党」に変身、いまではただの「民主党」へと落ち込んでいきました。

しかし、この見方は一面的である。トリアッティの時代から、イタリア共産党は目前のイタリア内外の情勢に即応した理論を構築してきた。ここではイタリア共産党が堕落して民主党になったかのごとくに述べられているが、この論文では異なる見方を提示したい。

1, 歴史的妥協の定義

 歴史的妥協とはいったいどのような思想なのか、一言で表すのは不可能である。所論の中でそれは明らかになるだろう。とはいうものの、ある程度輪郭を描いてみて、おおむねこのような思想なのかと見当を付けたほうが読者にとって理解しやすいだろう。ベルリングェル本人の発言は後ほど紹介するので、ここでは他の人の記述をもとに考えることとする。

 1976年1月、ベルリングェルはジャーナリストのヴィットリオ・ゴレッジオのインタビューに応じた。そのインタビューは共産党書記長室において非常に和やかな雰囲気で行われた。ベルリングェルの様子を、ゴレッジオは次のように描写した。

統一と代案という相互に関わり合う二つの概念が彼の念頭にあって、話題はそこに集中した。彼の功績は、統一達成のための代案提起であって、その限りでは彼の発明ではなく、イタリア共産党の全政策理論からの演繹にすぎない。ベルリングェルは、これまでの政治が分離と対決の政治であったとし、「われわれの提案は、民主主義的市民の統一という対案なのです」と強調した。

『ベルリングェル』p88

国民国家としてイタリアが真に統一されているとは言いがたい。イタリアは南北の分断、貧富の格差、異なる言語といった対立の契機を含んだ国である。19世紀以来、知識人はイタリアをこう分析し、「国民」としての感覚を創出する方法を模索してきた。その思想的系譜をベルリングェルは確かに継承している。

 次に、共産党幹部であったジョルジョ・ナポリターノの与えた回答を聴こう。彼は対談の中で歴史的妥協をこう説明した。

しかし、われわれが目ざすべき同盟はどんな型のものなのかというと、ここに、チリの経験の悲劇的な結末の直後に、われわれがとりあげた問題があるのです。ご承知のように、そのときエンリーコ・ベルリングェルは、ただたんに共産党と社会党との左翼同盟を土台とするのではなく、多様でかつずっと広大な基盤の上に立つ一つの政府、一つの政治指導をイタリアに与えることが必要だと力説しました。

『イタリア共産党との対話』p143

「多様」は歴史的妥協を語るうえで欠かすことのできない言葉である。革命の主体となるのは、共産党員に限られない。共産党はもっと広範な大衆と共闘すべきである。このように多様性をもった社会変革を志向する一方で、共産党の参加する新政権は「一つの政治指導」を与えねばならない。パルチザンの経験と共和国憲法とを大切にする諸党派が団結して、市民の自由を侵しあわよくば独裁政権を樹立しようとする反動勢力と闘おう。これはベルリングェルの思想をよく要約していると考えられる。

 要するに、歴史的妥協とは、国民的統合と社会主義社会への前進を達成するため、イタリアの社会主義運動に民主的諸勢力を招くものである。妥協と書くと共産党が共産主義を放棄し、他の勢力もそれぞれの信念を捨ててしまうかのように受け取られるかもしれないが、ベルリングェルは各勢力間で討論を行う必要性を繰り返し述べている。粘り強く討論することで、イタリア独自の社会主義への展望を描こうとするものである。

2, 共産党の若いリーダー

ベルリングェルの青年期

 エンリコ・ベルリングェルは1922年シチリア島の貴族の家に生まれた。父は弁護士であり、ファシズムと敵対した知識人でもあった。祖父もまた進歩的な考えの持ち主であった。幼少期の家庭環境がエンリコ・ベルリングェルの人格形成に与えた影響は少なくない。弟とは対照的に、彼は内向的な性格であった。反ファシズムの労働者の集まるクラブに弟と共によく訪れたが、弟が大勢と飲んだり遊んだりする一方で、彼は気の置けない仲間と政治談議をするのを好んだという。一世代上の指導者と異なり、ベルリングェルはファシスト政権による弾圧を受けたことはない。解放後に島で発生した暴動との関係を疑われて数か月勾留されたのが、強いて言えば国家権力による弾圧の経験だろう。

 1943年に共産党に入党した彼は、解放後のイタリアで共産主義青年同盟の書記として組織作りに取り組んでいく。1950年から2年間は世界民主青年連盟の書記も兼ねる。1957年には党の幹部養成機関の校長となり、1960年の第9回党大会において党指導部の一員となる。こうして順調に実績をつむ間、彼はモスクワなど海外にも赴いている。パルミーロ・トリアッティに目を掛けられたことも幸運であった。

熱い秋と共産党の刷新

 さて、社会情勢に目を転ずると、イタリアは1960年代に入り急激な経済成長を遂げた。キリスト教民主党と社会党を中心とした中道左派政権は、国民生活の向上を目標とし、積極的な投資により輸出産業の育成に努めた。その結果として都市には中間層が形成され、また、国民の消費水準は向上しドイツ・フランスに比べても劣らない程度となった。イタリアはようやくヨーロッパの先進国として胸を張れるようになったのだ。
 一方でそれは負の側面をも伴っていた。大企業で安定した収入を得る労働者はいいが、中小企業の労働者、臨時雇用の労働者は富の分配にあずかれない。イタリアは産業地域が北部に偏重しているので、豊かな北部と貧しい南部との地域間格差が広がる。南部からの移住者が北部の大都市周辺に定住し、スラムが形成されていく。また、大学に進む若者が大幅に増えたが、運営も設備も旧態依然とした大学に対して学生の不満はつのる。大学を出たとしても、安定した就職先があるとは限らない。中道左派政権は対処を試みるも、連立政権であるがゆえに大胆な改革は進められなかった。

↑1976年の社会党コマーシャルだが、南北問題を解決できない無能な政権を皮肉っている。 

 こうした不満に、1968年火が付いた。労働運動と学生運動の高揚、いわゆる「熱い秋」である。イタリア労働総同盟、イタリア労働連合、イタリア勤労者組合連盟の三大労組は、それぞれの支持政党からの自律性を獲得し、共同歩調を取りゼネストを決行する。その一方で、既存の労働組合に組織されない臨時雇用者らは底辺委員会という独自の労働組合を結成し、独自に活動を始める。学生はというと、学生団体を結成して、学内で集会やストライキを行い、学習環境の改善にとどまらず社会秩序への異議も訴えていく。特筆すべきは、労働運動と学生運動とが共闘していた点である。

 緊迫する社会情勢を前に、共産党は理論と政策の再考を迫られる。高揚した労働運動と学生運動の中からは、議会の力に頼らずに社会を変革しようとする動きが現れる。新左翼、あるいは議会外左翼と呼ばれる政治的潮流である。新左翼は共産党にとり脅威であった。1969年の第12回党大会を前にルイージ・ロンゴの後継者に彼が浮上したのは、一貫して党主流派の道を歩んできたことに加えて、持ち前の調停者的素質、そして党内外の若者の支持を集めていたことが大きい。共産党は議会外左翼のエネルギーを吸収しようとしていたのだ。そしてベルリングェルは1972年の第13回党大会で共産党書記長に選ばれる。

3, イタリア大衆の民主統一戦線を

↑共産党が大躍進し、政権参加が現実のものとなっていた時期の映像

病床での思索

 1973年、ブルガリア訪問中のベルリングェルは自動車事故によって重傷を負い、療養生活を余儀なくされる。病床で彼はイタリアの社会的分断を解決し民主主義を擁護するための方法を模索した。念頭においていたのは、同年のチリ・クーデターである。選挙によって誕生したアジェンデ左派政権が、アメリカの秘密裏の後援を受けた軍部のクーデターによって崩壊してしまった。アジェンデ政権がクーデターに抵抗できなかったのは、左派政党がカトリック大衆を含むより広い階層の支持をもたなかったからだとベルリングェルは分析した。目をイタリアに転ずると、共産党は合法的闘争路線を戦後一貫して取り続けてきたとはいえ、もし共産党が政権に参加しようとするとアメリカは武力行使も辞さないだろう。後述のように、事実、70年代に入ると極右勢力はアメリカの諜報機関の後援を得て暴力行為を繰り返していた。だからベルリングェルは決して悲劇的見通しを誇張しているわけではない。

歴史的妥協の公表

 思索の末に、ベルリングェルは「チリの事態後のイタリアについての考察」と題された論文を書き、73年秋に共産党機関紙で発表した。彼の論文の要旨は次の通りである。イタリアの弱い民主主義を守るためには、憲法に忠実な諸党派が団結しなければならない。共産党だけで、あるいは共産党と社会党の連立政権でやっていくのは不可能である。それはただ選挙で勝ったにすぎず、社会秩序を民主的に改造するには至っていないのだ。こう考えた彼は、論文中で次の言葉を記している。

しかし、こう考えることはまったくの幻想であろう。つまり、左翼諸政党と左翼勢力が、投票と議員の数で51%をとれば(このことは、それ自体としてみれば、イタリアにおける力関係の面で、大きな前進ではあるが)、それでもう、この51%を表わす政権の運命と、その事業とが、保障されたのだと。

「チリの事態後のイタリアについての考察」p220

共産党は保守派のカトリック勢力にも多くの労働者がいるという事実から目を背けるべきではなく、彼らと左派の労働者との間の一致を促す方向で活動すべきなのだ。カトリック勢力というからには、カトリック教会と深いつながりを持ち、戦後ながらく与党の地位にあったキリスト教民主党も当然含まれるのである。カトリック勢力の大半は自由と民主主義を尊重する市民である。我々社会主義者は、彼らと率直に建設的な討論を進めなければならない。こうすることで、反動勢力を封じ込めるとともに、ひいては議会制民主主義の道を通ってソ連とは異なる社会主義体制へ漸進的に移行することができるであろう、というものだ。
 

この論文は共産党機関紙に発表されたものであるが、一見すると共産党の今までの立場をひっくり返すかのような内容であったので、発表当時は党内外に広く反響をもたらした。ある者は恐怖した。共産党は政権に参加した後、他の政党を追放し独裁を敷くのだろうと考えたからだ。ある者は疑問を抱いた。政権参加を否定しないのか?それでは社会党と共産党は全く同じではないか、と考えたからだ。ある者は失望した。大衆の政治的エネルギーを無視して、共産党は議会内の勢力争いに加わるのかと考えたからだ。民主主義革命の路線を逸脱していると、党内からベルリングェルは突き上げられた。ロンゴは、「妥協」という言葉は我々の信念を貫き通さないことかと食いついた。ベルリングェルは釈明に追われることとなった。

ベルリングェルは社会主義の異端児か?

 しかし、共産党の歴史を振り返れば、決してベルリングェルは特異な思想を抱いていたわけではない。むしろグラムシやトリアッティの思想を継承したといえる。

 グラムシは下部構造が上部構造を規定するという公式的学説に異を唱え、人間の主体性を取り戻す方法と、従属階級の労働者がヘゲモニーを獲得する過程をめぐり考察を深めた。グラムシの著作の中にはカトリシズムを分析したものもあるが、それらを引用してベルリングェルは自説を補強していた。トリアッティは、ファシズムとの戦争の最中からカトリック勢力との連携を推進していた。彼は王政への賛否を棚上げにして国土開放のため共闘しようと呼びかけた。また彼は戦後の再出発に際しては、共産党がキリスト教民主党に歩調を合わせるべきだと主張した。「トリアッティが着手したこれらの政策から、ベルリングェルは、あらゆる可能な成果を引き出せるような状況のもとで登場してきた」という見方が妥当だろう(『ベルリングェル』p46)。ベルリングェルが一から思想を作ったのではない。それまでの共産党の活動の積み重ねがあったのだ。
 ベルリングェル自身は、一世代上のルイージ・ロンゴをも含む先人の努力に感謝して、次のような言葉を残している。

われわれは、グラムシ以来、イタリアで、ヴァチカン問題、カトリック問題がもっている決定的な射程を、どう理解すべきかについて学んできましたし、われわれはみな、まずトリアッティが、ついでロンゴが、この分野で、われわれの吟味にどれほどの発展を与えたか、についてよく承知しております。

「イタリアを救うための人民の統一」p83

 また、カトリック勢力の側でも共産党の呼びかけへ呼応するかのように、社会問題の解決を訴える者が現れていた。反共政策を強く支持したピウス12世とは異なり、ヨハネ23世は第二バチカン公会議を招集して東西の対話を深めるよう促した。彼の平和への思いを継いで、パウロ6世はさらに社会主義運動との実践面での一致を唱えた。1971年の教書「オクトジェジマ・アドヴェニエンス」では、キリスト教の教義と社会主義思想は一致しないとしながらも、社会正義を達成することは神の意思に適うことだとして、信仰につまずくことのないよう注意を払いつつ社会運動では社会主義者とも協力することを認めた。バチカンだけではなく、世俗社会も庶民の安寧を求めて活発に運動した。1960年代末からは、カトリック系の知識人が共産党の候補を応援したり、カトリック信徒から成るイタリア勤労者組合連盟と共産党員の多いイタリア労働総同盟が一緒に活動したりした。カトリック側の姿勢が軟化したことも、ベルリングェルと歴史的妥協を語るうえで忘れてはならない。

 とはいえ、ベルリングェルが共産党のイメージを転換させたのは間違いない。ベルリングェルは、共産党内で伏流のように流れていた思想を前面に打ち出したのだ。一見すると物静かで穏やかな人物であった彼は、対話と連帯という思想が受け入れられるまで闘おうとする闘志を秘めていた。そんな彼は、党内外の批判に対して誠実に答え、先の論文に素描した思想をさらに練り上げていく。ベルリングェルは騒乱の時代にあって、ささやかに革命を進めていたといえよう。

4, 左翼的代替と民主的代替


1977年6月28日の写真。ベルリングェルとモーロとが握手する瞬間である。
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イタリアの危機

 話が遡るが、イタリアでは1968年に左派運動のエネルギーが爆発した。左派勢力の増大に危機感を覚えたのが極右勢力である。極右勢力は市民を巻き込んだ暴力の行使によって社会不安を煽り、国政の主導権を奪おうとしていた。さらにはそれにとどまらず、独裁政権の構築をも視野に入れていた。彼らは政財界、軍部、教会にわたるネットワークを駆使して、テロや暗殺を繰り返していた。1970年、1974年にはクーデター計画が練られていたことが露見したが、このクーデター計画はその一環である。かかる極右勢力の攻撃対象となったのは左派運動、とりわけその中で最大の勢力をもつ共産党であった。このような暴力の行使は計画的に行われたものであったとされる(「グラディオ作戦」)。
 他方で左派運動は総体としてみれば、1970年代にはより穏健で粘り強い交渉を重視する路線に切り替えていた。労働者や学生は新左翼から離れ、共産党へ包摂されていった。ナポリターノは「1969-70年からはじまって、抗議運動を活気づけていた若者の大部分は、わが党との激しい論争のあと、青年同盟や共産党に入りました」と回顧している(『イタリア共産党との対話』p71)。若者のエネルギーを得た共産党は、勢力の拡大に弾みをつけることとなる。しかし、共産党の穏健化は一部の若者の不満を呼んだ。彼らは議会主義的堕落を糾弾し、民衆の蜂起によって革命政権を樹立することを夢見ていた。暴力の行使は腐敗した政治体制を一掃するためなら許されると見なし、極右の挑発に報復を繰り返していた。

 イタリアの1970年代は、極右勢力と極左勢力とが無辜の市民を巻き込み暴力の応酬を繰り返す、殺伐とした時代であった。「バイオレンスカルトに満ちたその時代」(『「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのか』)を「鉛の時代」という。鉛とは、飛び交う銃弾と、暗いイメージとを重ね合わせた表現である。そしてこの時代は度重なる暴力に市民の心が傷つけられていった時代でもある。

↑フォンターナ広場爆破事件の犠牲者を悼む歌

 経済に目を転じると、1973年秋にはオイル・ショックが発生する。ハイパー・インフレによって市民の生計は打撃を受け、企業の人員整理により失業者も増大した。政府は相次いで厳しい緊縮政策を行う。これに対して労働者は強く反発した。あちこちでデモ隊と警察との衝突が起こり、極左の一団は商店への放火も翌年4月には国際通貨基金や西ドイツから借款をするが、これには「内政干渉ともみられるような条件」(『イタリア共産党史』p190)が付けられていた。イタリアは足元を見られていたのだ。また、この時期には財界でロッキード事件やバチカン銀行をめぐるマネーロンダリングが発覚し、政治と金の問題に国民は不信感を高めていた。このマネーロンダリングは、今日ではグラディオ作戦の資金源を確保する目的で行われたのではないかと見られている。

政治構造の抜本的改革を

 治安の悪化、先の見通せない経済危機という危機のなかで、先に提示した歴史的妥協の理論を、ベルリングェルはさらに深化させていく。共産党は国家の危機を救う政党であると、社会主義革命は当分棚上げにして国民政党としての共産党の性格を強調する。

 第14回党大会の準備に入った1974年12月に、ベルリングェルは中央委員会・中央統制委員会の合同会議で報告を行った。意思決定の場で彼の真意を明らかにして、党幹部の誤解を解こうとしたのだ。この報告は、先の論文よりもいっそう踏み込んだ内容となっている。その報告の中では、今日の危機を乗り越えるために国民の総力を結集し、政治構造を変革する努力を続けなければならないと主張した。

すなわち、いま問題になっているのは、なんらかの方法で、中道左派の多数派に共産党を組み入れることではなくて、国政指導の方針と統治方法と権力の特性の中に、実質的な変化を引き起こすような解決策が問題となっているのであります。

「共産党の提案」p121

歴史的妥協とは政権参加への道を探る政治技術的問題ではない。資本主義のもたらした危機を増幅する今日の政治体制の不備を改め、国民が再び勤勉の精神をもって団結するように促すのが、我々共産党の役割である。そう話すベルリングェルは、とても共産党書記長には見えない。ここでは主権者たる市民の責任が強調されている。イタリアを危機から救うためには党の力だけでは不十分と見なしたのだ。

キリスト教民主党や社会党への呼びかけ

 議論は共産党の宿敵であったキリスト教民主党にも及ぶ。キリスト教民主党の内部には多様な思想の潮流があり、ファシズムに親和的な者もいるけれども、他方では憲法を大切にし労働者階級の利益を考えている者も多いのだ。党内の弁証法的対立の結果いかんによれば後者の民主的勢力が主導権を握ることもあり得ると、ベルリングェルは期待した。

われわれにとって、つねに明白であったことは、キリスト教民主党の立場と方針の根本的な変更のために、闘わなければならない、ということであります。われわれが否定してきたし、現に否定していることは、キリスト教の不動の「本性」などというものを、あらかじめ想定しておいて、そのうえに、路線をうち立てようとする態度にまじめさがある、ということ、いわんやマルクス主義的根拠がある、ということです。

「共産党の提案」p130

キリスト教民主党は一枚岩ではないという分析は全く正しい。キリスト教民主党は一時右傾化したものの、モーロやザッカニーニといった共産党に理解を示す指導者の努力によって、このイタリアが深刻な危機に直面した時期には徐々に開かれた態度をとるようになった。特にモーロは、共産党の政権参加を認めるべきだと6時間にも及ぶ演説を行ったほど、党内の反共主義的傾向と闘おうとする意思を秘めていた。敬虔なキリスト教徒であったモーロにとっては、反共政策の堅持は許せなかったのだろう。ともあれ、モーロの主張が通ったことはベルリングェルにとって好機であった。

 むろん、これに懸念を示す政党もあった。イタリア社会党である。社会主義を掲げる同党は、一時期は右傾化し中道左派政権に参加していたが、70年代に入ると再び共産党との共闘を模索し始めた。社会党は漸進的改革を志向する点でキリスト教民主党との協力が可能であり、また社会主義の建設を究極の目標とする点で共産党と一致していた。つまり、調停者として振る舞える政党である。しかし、共産党が直接キリスト教民主党と交渉を始めると、両党の間に埋没するおそれがあると社会党は危機感を抱いた。社会党は「左翼的代替」をスローガンに現政権に代わる左翼政党の同盟を築こうと主張した。
 これに対して、ベルリングェルは「民主的代替」を提唱した。次期政権の枠組みは、共産党員とカトリック大衆との同盟により反動勢力を包囲するというものだ。社会党が労働運動を牽引してきた歴史に敬意を示しつつ、広範な労働者を団結させるために社会党にも同盟に加わってほしい。このようなベルリングェルの方針は、あくまでカトリック勢力に対峙する姿勢を貫こうとする社会党とは似て非なるものだった。

「イタリアを救うための人民の統一」

 第14回党大会は1975年3月にローマで開催された。この大会ではベルリングェルの歴史的妥協路線が重要な論題となる。

 ベルリングェルの大会報告は「イタリアを救うための人民の統一」と題されたものである。党内における報告を、批判意見に対する彼の反論を盛り込んだうえで短く書き改めたものとみて差し支えない。この報告の要旨はおおむね次のようなものだ。イタリアの危機は一向に明るい兆しが見えず、無能力な政府と硬直化した官僚制のために有効な対策は創り出されていない。だからこそ、イタリアの民主主義を愛する市民に向けて、共産党は団結と建設的な討論を呼びかけるのだ、と彼は述べた。論争の的となった歴史的妥協とは、単なるビジョンを超えて、国民全体で不退転の覚悟で取り組むべき大事業なのだ。彼の説明によれば、歴史的妥協を唱える共産党は、当然のことながら批判-反共宣伝のことではない-も歓迎するのである。歴史的妥協に反対の者も、民主主義擁護の隊列に加えるつもりなのだ。ザッカニーニのように、共産党の意見を最初から最後まで聞いてそのうえで反対するのであれば、その人は共産党の理解者ではないかと、ベルリングェルは考えていたようだ。

 報告の中で彼はこう述べた。

現在、かつてなく必要になっている方法というのは、諸問題を客観的に検討する方法であり、部分的かもしれないが、とにかく実現可能な相互理解を全民主政党の間で、一貫して粘り強く追及しながら、おたがいの党派的立場の対照を行う方法であります。

「イタリアを救うための人民の統一」p54

ベルリングェルの発言には議会制民主主義の本質的な機能が見て取れる。ただ、彼は単に旧来の議会制民主主義は国民から乖離したところで空転していると見立てた。彼の唱えたのは、従来の制度に回帰するのではなくて、国民的危機を脱するために、市民の政治参加を促し議会制民主主義を再生するのだということだ。報告では自治体における住民参加や工場評議会を高く評価している。

 共産党のあり方については、「単に論争を押しすすめるだけではなく、闘いの豊かで実際的な運動を押しすすめる」ことが任務であると述べた(同書、p113)。そして目下の課題を解決すべく社会運動が一歩ずつ前進すれば、運動に協賛する保守派が増え、やがては階層ごと、地域ごと、党派ごとに分断されていた国民は民主主義の下に統一されるだろう。ベルリングェルが望んでいたのは、保守派が理念を共有したうえで真摯な批判を行うことだ。保守と革新との間の応答をベルリングェルは「思想の対照」と呼んだ。「思想の対照」を地で行くかのように、この大会には、キリスト教民主党のローマ市長やキリスト教民主党の幹事長も招かれていた。ローマ市長は大会に出席し祝辞を述べたものの、幹事長はかなり乱暴に断ったので、共産党としては遺憾の意を示したという。

 先の報告で批判者に先手を打ったので、今大会では歴史的妥協は留保付きではあるが共産党の方針として承認された。また、この大会では政治局の廃止も承認された。政治局は、もはや時代遅れの党長老の溜まり場と化しており、ベルリングェルが政策を進めるうえで障害となっていたのである。

米ソ対立の最中で 

 ところで、ベルリングェルの分析においては、イタリアの危機は国際情勢の文脈の上で語られていた。イタリアの危機は、世界全体の国家間対立と景気後退の一部だということだ。この大会には前例通りソ連共産党の代表も出席していたが、ソ連はイタリア共産党の独立志向を快く思っておらず、大会後にベルリングェル一派を批判するのだった。イタリア共産党は、ソ連が市民の自由を制限している、ソ連が勢力圏内の諸国を抑圧しているなどと批判する一方で、ソ連共産党が国際共産主義運動に果たした指導的役割を称えることを忘れず、ソ連から批判があると幹部をモスクワに向かわせたのだった。このソ連離れを徹底しないところが歴史的妥協を進めるには弱点となった。アメリカについては、従順でない国には経済封鎖や武力介入をしかけるところを帝国主義的だと糾弾したものの、ベルリングェルは対話の余地はないわけではないというそれなりに友好的な姿勢をとった。NATO脱退という公約を取り下げたことはその姿勢の表れである。二つの軍事ブロックの間に軍事的空白地帯が生まれると新たな国際紛争が生まれかねないとの考えを、彼は第14会大会報告の中で述べた。ベルリングェルのとった態度は、現状を追認する態度というよりは、米ソの外交関係を発展させることで東西の両ブロックを解消していこうとする態度だ。クリエジェルの言葉を借りれば、次のようになる。

イタリア共産党は1969年以来、北大西洋条約機構の柱となった当初の原理に対する敵意は維持しながらも、それをもっぱら攻撃的な組織であるとする考え方を徐々に放棄し、-ヨーロッパの軍事ブロックの解体がまだ日程に上っていない以上-それを勢力均衡の一要素と見なすようになった。

『ユーロコミュニズム』p75

 アメリカに秋波を送り、ソ連には面従腹背で臨む。このイタリア共産党の態度は、両大国をいらだたせるものであった。両国は自国の勢力圏の維持拡大のためにイタリア共産党を封じ込めようとした。アメリカはイタリア政界への働きかけを強化した。ワシントンからはイタリア共産党は味方にすべきでないとの声明が度々伝えられた。また、金銭的支援もされたようで、右派政党にCIAが選挙資金を提供しているという報道が総選挙中にされたという。一方でソ連も、イタリア共産党を「望ましい」方向へ誘導しようとした。イタリア共産党がソ連主導の共産党ネットワークの一員である以上、ソ連はイタリア共産党に正しい社会主義を教えなければならない。こんな理屈を持ちだして、ソ連はイタリア共産党の歴史的妥協に、プラウダの論説や党幹部の声明という形であれこれと批判を付ける。

ワシントンは、イタリア共産党がモスクワのトロイの馬であることが証明されるのを恐れている。他方モスクワは、イタリア共産党が東欧や世界の部分でソ連の利益に重大な影響を与える可能性をもち、しかもダンテがいうような「神にも神の敵にもいとわしき」国民的かつ民主主義的な自立した党に進化しつつあるのを恐れている。

『ベルリングェル』p209

 現在の我々から振り返れば、イタリア共産党は慎重のあまり独自性を発揮できなかったのだといえる。イタリア共産党がアメリカに近づこうとしたのは、イタリアが西側諸国の一員であるという現実を直視し、ソ連に対峙するにはアメリカの力を利用するのが得策だと考えたからである。しかし、それはイタリア共産党の片思いに終わってしまった。イタリア共産党がソ連から距離を置こうとしたのは、ソ連国内の人権状況や勢力圏内の国への強圧的態度(例えば、プラハの春)といった点を懸念したからである。しかし、ソ連を否定する勇気はついに出ないままだった。「対ソ自立の道を慎重に歩」もうとしたが(『イタリア共産党史』p220)、あまりに慎重すぎたのだ。

 とはいえ、イタリア共産党の不完全さを強調するのはよくない。イタリア共産党が、冷戦は全人類に悪影響を及ぼすと憂いていたことは間違いない。カトリック教会が東方外交を展開するのと同時期に、イタリア共産党もまた同様に国際的視座をもって独自に東西融和を進めようとしていた。

5, 歴史的妥協の終わり

 

共産党の閣外協力

 イタリア共産党は1970年代に躍進した。1970年の州選挙、1972年の総選挙、1975年の統一地方選と、選挙のたびに共産党は議席を積み上げていった。また、1974年には離婚法への賛否を問う国民投票で離婚合法化に賛成する左派が勝利した。1976年には再び国会が繰り上げ解散となる。この総選挙は共産主義の脅威を右翼勢力が煽り立て、共産党の影響力拡大を防ぐため諸外国が圧力をかけるなかで行われた。6月に開票の結果が示されると、共産党の大勝利となった。下院では得票率で34.4%となり、与党のキリスト教民主党に伯仲した。同年4月には国民投票で人工妊娠中絶の合法化が可決される。1960年代末から続く左派勢力全体の勢いに共産党が支えられたことで、共産党の党勢には追い風が吹いた。

 選挙後は、イタリア共産党の呼びかけにキリスト教民主党を含む他の政党が応じるようになった。共産党代表が政党間の会談に参加することは珍しくなくなった。共産党が事実上の閣外協力を始めたことは一つの転機であった。長らく雌伏していた共産党がその全力を発揮するときだと、党幹部は力んだことであろう。

 しかし、保守政権に協力するということは、一方では保守政権の失政に連帯責任を負わねばならないということでもあった。アンドレオッティ政権が打ち出す緊縮政策に呼応して、ベルリングェルは支持者に耐乏政策を呼びかけた。耐乏政策の精神的意義を強調し、消費社会からの移行を訴えるベルリングェルの姿は、クリエジェルには前時代的な神父のように映ったようだ(『ユーロコミュニズム』p80-81)。また、賃上げ抑制の合意や公共料金の値上げなどに共産党は協力した。
 こうした閣外協力は、労働者の目には共産党が支配階級の手先となったように映った。労働組合の保護を受けられない非熟練労働者は、デモやストライキで異議を申し立て共産党に敵対的な態度を示した。極左勢力は勢いが衰えつつあったが、その一部がより過激な暴力的行動を起こすようになった。これに対して政府の発表した治安維持政策に共産党は賛意を示したが、強硬な治安維持政策への賛成は左派の批判を招いた。共産党機関紙には毎日、党員からの抗議の手紙が寄せられ、その中には地方幹部の書いた手紙もあった。相当数の共産党員が歴史的妥協に失望したのだ。

ベルリングェルの死

 その後共産党は迷走していく。歴史的妥協の結果として「共産党は根本的改革勢力としての存在理由を曖昧にしていった」(『イタリアの歴史を知るための50章』p307)。歴史的妥協の発案者であるベルリングェルは、党内からの批判の声が高まるにつれて歴史的妥協を擁護することが難しくなり、最終的には何も語らなくなってしまう。1978年3月にはモーロが赤い旅団に誘拐される。与党であった共産党は、アンドレオッティ政権と共に赤い旅団との交渉に反対する。モーロは見殺しにされ、5月9日に遺体で見つかる。この事件後にキリスト教民主党の態度が硬化してしまったことも共産党にとっては不幸であった。1979年の総選挙では共産党は議席を減らしてしまう。共産党は社会党との協力を重視する姿勢に回帰したが、社会党は共産党との提携を拒否すると既に決定していた。1980年には労働運動の退潮を印象づける出来事があった。トリノのフィアット社工場を工員が占拠し、共産党はベルリングェルが現地入りするなどして支援するものの、中間管理職や事務職員が職場復帰を求めてデモを行った。社会の風潮の変化に直面したベルリングェルは歴史的妥協に代わる新たな方針を生み出せずに、1984年に亡くなる。カリスマ指導者なき後の共産党も、党勢を盛り返すことができないまま、最後には共産主義の看板を下ろしてしまった。

おわりに

 イタリア共産党の消滅と書くと悲劇的な結末であるかのように見える。グラムシ以来の長い伝統と、西側世界で最大の勢力を誇る名門政党が、ソ連と共産圏の諸国の崩壊によって消滅してしまったのだ-こうまとめるのは簡単である。だが私は、共産党の発展的解消とも捉えられるのではないかと考える。ソ連型社会とは異なる展望をベルリングェルは抱いていた。彼の亡き後もカトリック勢力と社会主義との対話は続けられ、政党連合の「オリーブの木」の結成を経てイタリア民主党の発足という成果をもたらした。ベルリングェル自身が直接関与したわけではないが、労働運動でも三大労組の協調は21世紀に入っても続いている。市民の政治参加は様々な形で活発に行われている。
 また、カトリック勢力も近年では様々な社会問題に積極的に関与しようとしている。ローマ教皇が政治的見解を述べたり国際会議に出席したりすることは今日では珍しくなくなった。直近では、2013年に選出されたフランシスコ教皇は、グローバル経済化に伴う貧困問題を深く憂い、政治指導者に対し早急な対応を求めている。

 ベルリングェルは多様な思想の対話を重視した。彼の方向づけた路線は、彼の後の政治家や市民にしっかりと継承された。今日のイタリアでは社会運動全体が、まるで様々な種類の木の生える美しい森へと成長している。これは社会主義の可能性を示す出来事であろう。国民統合と民主的前進は今日の我々日本人に課せられた使命でもある。反動的傾向や冷笑的傾向と闘うには、ベルリングェルの思想から学べることが多いはずだ。

参考文献

飯塚深『現代イタリア政治史研究』成文堂、1975
伊藤昭一郎『イタリア共産党史 1943-1979』新評論、1980
伊藤武『イタリア現代史』中央公論新社、2016
アントニオ・グラムシ『グラムシ・セレクション』片桐薫編、平凡社、2001
アニー・クリエジェル『ユーロコミュニズム』野地孝一訳、岩波書店、1978
ヴィットリオ・ゴレッジオ『ベルリングェル』片桐圭子訳、新評論、1979
高橋進、村上義和編著『イタリアの歴史を知るための50章』明石書店、2017
中央出版社編『教会の社会教書』1991(パウロ6世「オクトジェジマ・アドヴェニエンス」を所収)
パルミーロ・トリアッティ『トリアッティ選集』第3巻、高野譲編、合同出版、1980
ジョルジョ・ナポリターノ、エリック・J・ホブズボーム『イタリア共産党との対話』山崎功訳、岩波書店、1976
平島幹『「鉛の時代」年表』(https://passione-roma.com/%e3%80%8e%e9%89%9b%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%80%8fcronologia/)
平島幹『「鉛の時代」:「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのか』(https://passione-roma.com/%E3%80%8E%E9%89%9B%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%8F-%E3%80%8C%E8%9B%8D%E3%81%8C%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%92%E9%A7%86%E3%81%91%E6%8A%9C%E3%81%91/)
エンリコ・ベルリングェル『先進国革命と歴史的妥協』大津真作訳、合同出版、1979(「イタリアを救うための人民の統一」「共産党の提案」「チリの事態後のイタリアについての考察」を所収)
松本佐保『バチカン近現代史』中央公論新社、2013


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