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理由に飲み込まれたくない

大人数の飲みの席で上手く話せない。3人までならいける。4人を超えるにつれ静かになっていく。

お酒は飲めないけど飲みの席は好き。だけど、いろんな人の色んな会話と、表情と、匂いと、床の振動と、その他もろもろを一斉に浴びると、半分フリーズしたみたいにバカになってしまう。一対一ではよく喋るのに、大人数になった途端、初心者が描いたプログラミングのコードみたいに、Yes/Noの簡単な回答しか話せない。だから大体はテーブルを介して四方八方へ拡散する会話を傍観しているか、その隅っこで一対一(あるいは3人)で会話している。どちらも飲みの場でしかできない、愛おしい営み。そういった類の営みが好きすぎて大人数の飲み会を企画することも多い。だけど、飲みの場のテーブルという小宇宙の中に完全に入り込めないことに、一抹の寂しさを覚えることも事実だ。

飲み会のような周りがうるさい場でも、自分が会話している人の声を拾い上げる機能をカクテルパーティー効果というらしい。この理屈を借りるのであれば、僕はカクテルパーティー効果が無効化されている側の人間だ。インターネットの海には、僕みたいにカクテルパーティー効果が無効化されている人たちのエピソードとか、無効化のメカニズムとかの情報が沢山投げ込まれている。寂しさの原因に名前が付くと、その寂しさは僕だけのものじゃなくない、普遍的な寂しさになる。インターネットに借りた理由に、一瞬だけ納得しかけて、それでも寂しさの大きさや形はそのままで、通奏低音のように僕の中に鳴り続ける。

ある寂しさが普遍的なものであっても、理由が解明されていても、ちゃんと寂しさのままで持ち続けること。ちょっと前まではその行為について、憧れと諦めを捨てきれていない有害なものと扱っていた。できないことに執着せず、さっさと諦めて、できることをやっていく。そうやって折り合いをつけることが生きることそのもの、みたいな信念。僕がグダグダながらに生きながらえているのは、若いながらもその信念を持てているから、くらいには、常にぐらついている心を支えていた。だけど最近は、寂しさを寂しさのまま大事にしてやることの方が、心の健やかさを保てそうな気がしている。寂しさという生理現象を理由で上塗りすれば見た目は良くなる。けれど、地形そのものをアスファルトで平滑化できないように、心の凹凸を埋めてしまおう、という試み自体に無理があるのではないか。さらに飛躍させると、寂しさに限らず、上手くいかないこと、どうにもならないことについて、物理現象のように理由を探して納得してしまうのは、思考の可塑性をないがしろにしているのではないのか。みたいな観念が、僕の脳内で形をつくり始めている。

自分自身を歩かせるのに、あるいは人々を統治するのに、理由はとても便利なツールだ。ある側面から見た時に都合の良い仕組みに、一応の納得感を付与できるから。けれど、僕は一応の納得感で自分を支えられるほど、強くも器用でもないらしい。倒れないで歩くための堅固な納得感が欲しい。強くも器用でもない以上、もがき続けるしかなんだろうな。めんどくさいな。

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