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高頭仁兵衛(たかとうにへい)

毎年7月25日に開催される高頭祭・弥彦山たいまつ祭。前日の梅雨明けで、お天気に恵まれた弥彦山でした。山頂からくっきりと佐渡が眺望でき、新潟平野は緑の絨毯。

画像1新潟平野と大河津分水。洪水に悩まされた信濃川にバイパスの大工事。15年の歳月をかけて1922年(大正11年)開通。(2019.7.25撮影)

彌彦神社奥の宮のある山頂(634m)で神官の祝詞。地元山岳会の案内で、たいまつを携え山頂から弥彦神社表参道を弥彦駅へ。ボーイスカウト鼓笛隊の先導で、花火と多くの観光客に迎えられました。

画像2空き缶に灯油を染み込ませた布を入れて点灯(2019.7.25撮影)

日本書紀によると7世紀(668年7月)、天智天皇の時代に「越の国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」とあり、越後の燃える水を朝廷に献上した記録が残っています。JXTGエネルギー(旧日本石油)の新潟製油所には彌彦神社から勧請した「伊夜日古神社」がお祀りされています。

越後国

1784年(天明4)菅江真澄が越後国にてスケッチ
(左)「弥彦山のヤマオニとミノムシという燐火」
(右)「石油を灯火用とする」
菅江真澄民族図鑑(下巻)「粉本稿」より

明治の中頃、長岡市の東山連峰で石油が産出されるようになり、戦後になって火の神様を祭る神事としてたいまつ祭りが行われるようになりました。ずっと時代を遡って縄文時代に「天然アスファルト」が、土器や土偶、狩猟の道具の接着剤として使用されていた形跡があり、「東山油田」から東北・北海道へと広く流通していた可能性が指摘されています。

画像3彌彦神社拝殿では、2礼4拍手1礼(2019.7.25撮影)

彌彦神社の御祭神は、紀元前392年、天香山命(あめのかごやまのみこと)が弥彦山に葬られ廟社を築き奉祀。第十代崇神天皇が社殿を創建、2400年の歴史を有する神社といわれています。地元では「おやひこさま」と呼ばれ、分社は北海道から山陰まで47社に上ります。

画像4越後一宮 彌彦神社宮司の渡部吉信さん(2019.7.25撮影)

  高頭仁兵衛(たかとうにへい)は、1877年(明治10年)、新潟県長岡市深沢町(三島郡深沢村五十九番戸)の豪農の生まれで幼名「式太郎(しょくたろう)」。

画像5大湯温泉にて 左から、武田久吉、高頭仁兵衛、槇有恒(越後支部提供)

1905年(明治38年)、日本山岳会(当時の名称は『山岳会』)創立時、7人の発起人の1人で、黎明期の日本の山岳会において財政面を支えた功労者でした。

画像61969年(昭和44年)『日本山嶽志』復刻版に添付された『越後の旦那様』

高頭さんの追悼集でもある『越後の旦那様』(日本山岳会編)によると、16才の時、村の祭礼に寄付する煙花を作っている最中に火薬が爆発して大けがを負い、両目損傷と右手親指の欠損でしばらく筆を握れずあきらめなくてはならなかったことや、身長が足りなくて徴兵検査に受からなかったことなど、つらい日々をおくる時期もあったのかもしれません。祖父母から厳格な教育を受け、仏教と儒教の影響を受けた幼年期に身に着いた勤勉さ、殺生嫌い、投機嫌い、好奇心と研究心そして読書好き。幼少期は虚弱でしたが、自宅から片貝高等小学校に徒歩で往復3里(12キロ)を歩いたことが後の強靭な足腰を作り、そして十二・三歳の頃から一升や二升の酒を飲んでいたと書かれています。

一途な山への情熱で、1906年(明治39年)、6年の歳月をかけ日本初の山岳百科事典「日本山嶽志」を編纂、2130座の山を網羅した1360ページの大著でした。3万冊の資料で屋敷の蔵がいっぱいになったとか。のちに蔵書は長岡の互尊文庫に18,800冊を寄贈されましたが、1945年(昭和20年)8月1日の長岡空襲によってすべて焼失しています。

『山岳会』最初の事務所は高頭さんの東京の寓居(仮住まい)だったようです。山岳会立ち上げ時は、登山が一般に普及する前の時代ですから会員を増やすため、越後の親族、友人、日本山嶽志編纂で知り合った名士、学者の友人に声をかけ入会を勧めるために奔走。

千人分の年会費にあたる千円を山岳会に寄付し、それを18年続けたことが逸話となっていますが、約束したことを果たすため、山岳会を受取人とする1万円の保険に加入しました。生活は質素を信条とされていたようで、山に費やした資金は、先祖からの家財(国宝級、重要文化財級のお宝もあったとか)を売って得たお金で、「破家(バカ)となりました。」と書かれています。

画像71947年(昭和22年)6月 苗場山上ノ芝にて(越後支部提供)

片貝高等小学校で地理歴史担任の大平晟(おおひらあきら)先生(後の日本山岳会名誉会員)から大きな影響をうけ、13歳で弥彦山に登って登山のすばらしさを知ったところから始まっている。富士山、八海山、苗場山を次々に登ったが、当時八海山には狼や大蛇がいて危険極まりない山と信じていたのが頑固一徹な一族の長老又内老人や番頭である。高頭さんはそれでも口実を設けては山に出かけていたが、ついに又内老は最後の手段として、高頭さんのお母さんに言いつけ、お母さんの口から直接に、登山を止めさえるようにさせてしまった。いま時の青年なら、とても母親のひと言ぐらいで登山をあきらめるほど素直であるまいが、そこが高頭さんのえらいところだと思う。ひとまず登山を断念し、その代りのはけ口として地誌、歴史、紀行などの書物を読みあさった。(1969年8月、三田幸夫談)

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山岳会の機関紙『山岳』第二号の編集会議の後、城氏が独断で富士紀行という余り香ばしからぬ一文を加えたので、面白くないと非難の声が高まったので、穏便主義の高頭君は大分心をくるしめられたようである。
(「山岳」第五十三年、武田久吉談)
山岳会を創めた頃から、何か新しい計画が出ると、越後弁で『ヤリヤショウテ』と賛成する。当時の先覚者や大学者に若造の我々が気軽に講演などを頼んで快諾してくれたのは高頭君の息が及んでいたためである。」「鈴木牧之と高頭君がなんだか似ているように思えて仕方ない。塩沢町もそう遠くないし、出版について『北越雪譜』ほどのいざこざは無かったものの、『日本山嶽志』の出版の過程を知るものとしては、同じ越後の土豪という通ずるものがあるだけではないのであった。
(1958年8月、高野鷹蔵談)

20才で高頭仁兵衛(にへい)を襲名。30才で山岳会発足後は、たいへんな情熱で上越の山から日本アルプス、東北、九州、台湾の山に足跡を残し、『山岳』の編集にあたられました。登山道がまだなかった平ヶ岳には十数年準備して苦労の末登頂されたようです。

画像9日本山嶽志 二七頁

高頭さんの「日本山嶽志編纂趣旨」に、「人跡未ダ到ラザル「ひまらや」ノ最高嶺に踞シ、以テ天地ヲ小トセン、豈(あ)ニ曠世(世にまれなこと)ノ快事ニ非ラズヤ(あらざるや)」と、人跡未踏のヒマラヤ最高峰エベレストに挑戦し、山岳会が登頂することを激励するかのような言葉も出てきます。

1933年(昭和 8年)12月、日本山岳会第2代会長に就任
1946年(昭和21年)12月、高頭翁を顧問とし、日本山岳会越後支部創立
1958年(昭和33年)4月6日、82歳で長逝

画像10翁高頭仁兵衛氏之碑(2019.7.26撮影)

高頭祭の翌7月26日には、日本山岳会越後支部の方々に案内されて高頭さんの屋敷跡と菩提寺の正林寺でお墓参り。屋敷は取り壊され、現在は長岡市の公園になっていて大きな『翁高頭仁兵衛氏の碑』が残るのみです。

画像11高頭さんの菩提寺「大滝山正林寺」自宅跡はすぐ前(2019.7.26撮影)

大滝山正林寺の住職 堀川意明さんに興味深い歴史を伺いました。「高頭さんはあなた方山岳会に財産すべてをつぎ込んで今はなにも残っていませんよ。」と最初にご挨拶。
正林寺は浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。本堂は徳川幕府政権下に反感を持った人たちが明治4年、「秀峰山 明暗寺」を打ちこわし、解体された材木を使用しているとのこと。全国に幕府直営の7つ置かれた「明暗寺」ですが唯一ここに現存しています。

画像12秀峰山明暗寺解体材木の中から発見された木札(2019.7.26撮影)

明暗寺跡は、三条市指定史跡「秀峰山明暗寺跡」として三条市中野原に残っていて、説明文には「普化宗明暗寺は、元禄4年(1691)村松から下田中野原に移され、廃宗となる明治4年まで約200年間続きました。寺とはいっても、まったく異質で、深編笠に袈裟を着け、帯刀し尺八を吹いてまわる虚無僧(武士)の寺でした。幕府の軍役寺として隠密や国事犯の逮捕も義務づけられ、さらに諸国の情勢をさぐる任務を負っていたため、幕府の犬とよばれ警戒されました。役人でも勝手に出入りできず、浪人や殺傷犯人の隠れ場となり、しだいに品格も落ちていきました。下田の一揆では、寺に役人らが逃げこみ百姓にとり囲まれ、打ちこわしにもあいました。現在は歴代座主や僧の墓のみが当時を語る寺跡として残っています。」と書かれています。

参考資料
1)菅江真澄民族図鑑(下巻)粉本稿(内田ハチ編)1989年(昭和64)発行
2)日本山岳会「山岳」第五十三年
3)日本山嶽志 復刻版1969年(昭和44)発行
4)越後の旦那様(日本山岳会編)1969年(昭和44)発行
5)北越雪譜 鈴木牧之著


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