朝比奈隆、大阪フィル/ブラームス:交響曲全集(1994-1995)【起死回生のツィクルス】

「肩たたき」の危機

生涯最後の数年間の人気ぶりからすると想像がつきにくいが、80代序盤の朝比奈隆(1908-2001)は苦境に立っていた。
新日本フィルハーモニー交響楽団とのベートーヴェン、ブラームス両ツィクルスの成功で東京における認知度が上がった一方、1990年から1991年は体調不全により度々キャンセル。同時進行で大阪フィルハーモニー交響楽団との亀裂が表面化、以前記したように腕利きの中堅団員が大阪センチュリー交響楽団(現在の日本センチュリー交響楽団)に次々と流出、ついには組合活動を先鋭化した楽団員がリハーサルをボイコットする事件まで起きた。

当然ながら朝比奈隆と大阪フィルの評判はがた落ち。1994年5月には毎日新聞(関西版)が関西在住の音楽評論家の意見をもとにした「近畿のオーケストラランキング」「演奏にムラ-老舗の看板が泣く」なる記事を掲載。大阪フィルは大阪センチュリー交響楽団、京都市交響楽団に次ぐ第3位で「内部のゴタゴタが演奏に出ない安定した体制が望まれる」「個々の技量は優れているが、まとまりが悪い。ポスト朝比奈の強力なリーダーが必要」「秋山和慶(同年3月に27年務めた指揮者〔ポスト名〕を)退任に見られる将来展望を欠く姿勢は論外」とボロクソに言う意見が紙面に並んだ。常任指揮者への評価でも京都市響の井上道義の点が高く、朝比奈隆は関西フィルの黒岩英臣と同点の4位にとどまった。ダメ押しとばかりに関西フィルがウリ・マイヤーを新しい常任指揮者に迎えることを好意的に伝え、「いびつな状態脱却を」「オーケストラは誰のものか」などと朝比奈隆を半ば老害認定し、それを戴く大阪フィルは朽ちた名門と位置付ける論調だった。

文化勲章と阪神大震災

事ここに至り、もはや内輪もめしている場合ではないと労使双方が名誉挽回に乗り出す。楽団員側は組合執行部を一新、組合活動の過程で目立った楽団員同士の諍いを解消しようと動いた。事務局側も朝比奈隆、楽団員双方とうまくやれる人材として名古屋フィルハーモニー交響楽団から小野寺昭爾を事務局長として招き、再出発に歩み始めた。

そこに大きなニュースが舞い込む。1994年11月、朝比奈隆が文化勲章を受章したのだ。西洋音楽家の受章は何と山田耕筰以来、指揮者としてはもちろん初めてだった(以後現在までも小澤征爾のみ)。この直後の同年11月9日の交響曲第1番から始まったのが上記画像のブラームスツィクルスである。
ブラームスの交響曲の持つ「ロマンティックな内容をあえて理路整然と喋ろうとする軋み」は朝比奈隆の内面にも宿る要素のため、両者は「相性」が良く、とりわけ第1番にはその点の面白さが発揮された。

再生を期する楽団員の意欲の結実か、叙勲による朝比奈隆の求心力回復かはともかく、この第1番はすみずみまで歌い抜かれ、しかも堅牢な構成美を備え、一定のシャープさも感じられる。アンサンブルは決まり、楽団員のソロや重奏からは渋い色気が漂い心に響く。朝比奈隆と大阪フィルの真価を改めて知らしめる名演だった。

ところが2か月余り後の1995年1月17日、阪神大震災が近畿地方を襲った。朝比奈隆、大阪フィルの楽団員ともに命に別状はなく、楽器や設備にも大きな被害はなかったが、同日の定期演奏会は中止。そして以降しばらく演奏会の減少傾向が続くことになる。
朝比奈隆は震災の5日後、東京都交響楽団に客演してシューベルトのいわゆる「未完成」「グレイト」のプログラムで聴衆を沸かせる。文化勲章受章前後から東京での人気が増し始めた。

無事客演を終えると1月30日のブラームスツィクルス第2弾、交響曲第2番をメインとする演奏会のリハーサル(1月27日)に臨んだ。朝比奈隆はこう言ったという。
「地震があったからというのはなんの申し開きにもならないのであって、新しい発見をするつもりでやりましょう」

驚くことに第2番はゆったりしたテンポをとりながら、推進するエネルギーがビュンビュンあふれる瑞々しい響きが展開し、言葉通りの「新しい発見」のある内容なのだ。フィナーレのコーダにおけるギアチェンジしてのダッシュは鮮やかで傷ついた聴衆の背中をドーンと押すかのよう。終演後の客席の温かく盛大な拍手も納得。直木賞作家の阿部牧郎はこう記した。

「青年」朝比奈の復活である。激しさ、気迫、肯定感。激烈なコーダのあと、聴き手は茫然とする。巨匠は再出発を期したのかもしれない。

充実の晩年への道

3月12日の交響曲第3番、5月28日の交響曲第4番も寂寥感にパッションのはらんだサウンドが響き渡る演奏でブラームスツィクルスは成功裏に幕を閉じた。第3番のなりふり構わぬ振幅や第4番の滲み出る孤独は、かつて東条碩夫に語った「ベートーヴェンを前にすると竦み上がるが、ブラームスは何か一つ料理してやろうという気も起こる」という不敵な言葉が音楽に結実した好例だろう。

ここから朝比奈隆はマーラーを選集で取り上げるなどますます精力的かつ自身の得意レパートリーを再構築する活動を行う。そして翌1996年、米寿を迎える年に5月と10月の2回、シカゴ交響楽団へ客演。前者にブルックナー:交響曲第5番、後者はブルックナー:交響曲第9番ほかを取り上げた。
帰阪した同年11月から大阪フィルと全てザ・シンフォニー・ホールでベートーヴェン交響曲ツィクルスを開始、1997年7月に完結後リリースしたライヴ録音CDとDVDは演奏、音質の両面で絶賛された。
また1996年4月にはオーケストラを巡る体制が抜本的に見直され、長年任意団体だった大阪フィルハーモニー交響楽団は大阪フィルハーモニー協会(現在公益社団法人)が運営すると明確に位置づけた。そして1997年に無事50周年を迎えた。

1994年から1995年のブラームスツィクルスは「限界」が囁かれた朝比奈隆の「一発逆転」、晩年の輝きへの第一歩だった。

【参考文献】
中丸美繪『オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆4つの試練』(中公文庫)
ONTOMOMOOK『朝比奈隆 栄光の軌跡』(音楽之友社)

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works:ショップ店員、ライター(音楽・映像ソフトや本のレビューなど)、文化思想家/interested:読書、クラシック音楽、スポーツ観戦、映画、政治外交史/執筆依頼はインスタグラムのDMにて https://www.instagram.com/choku_nakagawa/