プロ野球賢者の書④「孤高の求道者」と「鉄人」【ふたりの背番号3】

本稿の狙いは以下を御参照下さい。


松井浩『打撃の神髄 榎本喜八伝』(講談社)

日本プロ野球史上最年少で1,000本安打、1,500本安打、2,000本安打を達成した榎本喜八(1936-2012)。
前回取り上げた長嶋茂雄とは同年生まれ、しかも同じ背番号3をつけた(学年は長嶋が上だがプロ入りは榎本が先)。
王貞治の師として有名な荒川博が王に先立って目をつけ、育てた一番弟子でもある。
ただ榎本は現役時代寡黙なことに加え、パ・リーグ一筋であまり日が当たらず、しかも引退後球界と距離を置いた。
従って沢木耕太郎のノンフィクション短編集『敗れざる者たち』(1979年)の1篇で描かれたり、そこから「Number」誌のインタビューに応じたこと以外は注目を集める機会は殆どなく、一種の「伝説」として語られる存在だった。

そんな榎本の実像に長期間の地道な取材で迫った評伝が本書。

「王より上」の境地に至ったバットマン

簡単に言えば「打撃は好感触が掴みづらく掴んでもまた逃げていく。それを身体の中に収めようとしたひと」を描いた1冊。
それだけだが、1つ1つの項から発せられる「気」がスポーツ選手の評伝としては極めて濃く、厚く(熱く)、重い。

師匠の荒川が、榎本の打撃を語った言葉を読んだだけで想像を超えた領域にクラクラしてくる。

お客さんを喜ばせるプレーが初めて芸の域に達したプレーなんだね。芸とは、人を楽しませるもんだよ。まず、《技》があって、その上に《術》がある。だから、《技術》というんだ。《芸》はその上なんだよ。《芸》の域に達したプロ野球選手には、川上さんや藤村富美男さん。長嶋、王、金田正一もそうだ。で、《芸》の上が《道》を極めるだ。野球で、それに挑戦したのが榎本なんだよ。僕の弟子では確かに残した記録では王が上だが、到達したバッティングの境地でいえば、榎本の方が上だったね

著者の松井は、いわゆる「ゾーンに入った」時の榎本の境地をこう表現する。

毎日のトレーニングを通じて、《身体の芯》である臍下丹田を徹底的に鍛えた。呼吸法と臍下丹田から五体のスミズミまで結ぶことで、臍下丹田を練り上げ、その意識を高めていった。また、バットの重みを繰り返し感じることで、やがて《バットの芯》が手に取るようにわかるようになった。さらに、このバットの重みを臍下丹田で感じることで、《バットの芯》と身体の芯とをお互いに結びつけた。するとバットにまで血が通い、構えたバットの長さや重さ、形、その存在までありのままに感じられるようになった。さらに、《身体の芯》と《バットの芯》が結びつけば結びつくほど、ピッチャーの投げる《ボールの芯》が、より正確に捉えられるようになっていった。そして、ありのままに、《身体の芯》で感じられるようになった。

つまり、《身体の芯》と《バットの芯》、そして、《ボールの芯》という三つの芯が一体となった時、榎本は究極的な境地に到達したということになる。これぞ、まさにバットとバッター、そしてボールの渾然一体化、即ち《万物の調和》ではないだろうか。

この時の榎本の打撃フォームは、とても柔らかく美しかった。一般に、柔らく美しいものは、かえって壊れやすいというイメージがある。しかし、榎本の打撃フォームは柔らかくて美しいのに、形が崩れず、むしろどっしりとしていた。そればかりか対戦したピッチャーから、榎本は当時のプロ野球界でも最も迫力のあるバッターだったと証言されている。つまり、榎本の打撃フォームは柔らかさ、美しさと同時に、強さと迫力も兼ね備えていた。

王貞治は、ホークス会長となった現在でも折に触れて自軍の打者を激励するが、その時よく言うのが「バットの芯とボールの芯を結べ」。
ともに同じ荒川博を師と仰いだ榎本と王の打撃の本質の共通認識が浮かび上がるし、その荒川が「到達したバッティングの境地でいえば、榎本の方が上」というのだから、榎本の別次元性が分かる。

前述したように打撃は好感触が掴みづらく、掴んでもまた逃げていくもの。
榎本の掴んだ好感触は何とプレー中の捻挫で7試合欠場していた間に逃げていった。
そして次第に見えないものを追い求めて苦しみ、周囲とも溝ができてしまう。
現役晩年のいくつかの振る舞いは「奇行」とされ、今に至るまで虚実取り混ぜて語られる。
確かに西鉄で榎本の現役最終年をともにした若菜嘉晴は、YouTubeでホークスの長谷川勇也の話題が出た際に「打撃の求道者」という文脈で榎本の名前をあげ、「新人でキャンプが同室だった。夜中に突然起きだして声をあげ、バットをブルンブルン振り始めた」と回想していたから、尖った人間だったことは間違いないだろう。

しかし、本書を通読してずっしり残るのは一つのものを極め、掴もうともがく、真摯でちょっともろい人間の姿だった。
こういうひとの姿をセンセーショナリズムに陥らず、シンプルかつ共感に満ちた文章で描いた著者の筆力は素晴らしい。打撃、ひとつの打席、ひとつのスウィングをより真剣に考えたくなる良書。

衣笠祥雄『水は岩をも砕く』(ロング新書)

日本プロ野球記録である2,215試合連続出場を筆頭に通算2,543安打、504本塁打の実績を残し、国民栄誉賞を受賞した「鉄人」衣笠祥雄(1947-2018)。やはり背番号3の内野手(入団当初は捕手で背番号28)で広島カープの永久欠番になっている。

「鉄人」の歩みを通じた生き方エッセイ

本書は引退後約20年経った2008年出版で2012年に新書化された。「編集協力/富永幸二郎」とあるから恐らくこのひとが構成した聞き書きと推測する。

赫々たる実績と題名から堅苦しさや説教風の語り口を想像しそうだが、実際の中身は野球人生を振り返りつつ、生きるヒントを織り交ぜた肩の凝らない内容。ときに鋭い指摘をしながらも終始温かい口調だったありし日の解説が頭に浮かぶ。

「基本を個性的に表現することが、個性である」という項にはこんな言葉が綴られる。

人はそれぞれ体を違うし、性格も違う。自分の身体に合った、また自分のリズムに合ったものは何なのか。自分の最もやりやすい方法はどういうものなのか。練習の中でそれをどう見つけるのか。その疑問を解く上では基本という出発点がない限り、個性を形にしていく手だてはないはずだ。
基本をどのような個性で表現するかが、そもそも個性である。そこに基本がなければ根拠がなくなり、ただの自分勝手になってしまうだろう。

個性と基本のことで言えば、基本の大切さは、調子の悪い時に分かる。個性的な技術が基本から出発していなかったら、調子を崩した時には返りようがない。
立ち戻るところがなければ、道に迷うだけである。失敗した時やつまづいた時に、その理由を確認できないと、どんなに素晴らしい技術があっても意味を失ってしまうだろう。欲しいのは信頼できる技術なのだ。それは相手に勝てる技術であり、勝利するために利用できる能力である。
そして様々な状況に対して臨機応変に対応できることや、悪くなった時に直せることが信頼できる技術と言えるだろう。そこに個性が基本から生まれるという意味がある。
技術には安定が必要である。そのためには当てずっぽうな感覚から技術を作らず、基本から技術を作るべきだ。そこに自分の身体や性格を照らし合わせて、そのヒントを基に自分の方法論を磨けば、信頼のできる個性的な技術になるに違いない。

また「頑固にやって結果が出ない方法論」という項では

頑固にやって成功する場合と、自分を信じて頑固にやってもなかなか結果に結びつかない場合と、頑張り方には二通りあると思う。私はそのどちらも経験した。しかし、その違いはそれほど難しくないと思う。
たとえば、どれだけ努力しても成功を収められない場合がある。いくらやっても結果が出ない場合でも、自分というものを頑固に信じる。最後まで貫く。考え抜いたこの練習で正しいのだと信じ、貫く。
しかし、それでもどうしても結果が出ない場合、最初の方法論をいつまでも信じても意味がない。それは途中で判断しないといけない。練習の《方法論》そのものが違うのかもしれないと思うことだ。無暗に続けているならば、練習は惰性の練習になってしまう。やがて、自分の頑固を貫く意味などなくなってしまい、すべては無駄な努力になってしまう。だから、方法論を改めて探すしかなくなる。
理想よりも結果の方が何十倍も重要である。結果の出ない自分の理想は捨てるべきだ。少なくとも何かが不足しているのだと判断できないと、理想を掲げただけで終わってしまう。

頑固さだけでは何も成り立ちはしない。
結果が残せる技術。それを得るための練習や方法論というものが、必要になるだろう。技術を作り上げるには一日二日ではできない。一年二年でもない。技術ができ上がるということは、その人が歩いてきた足跡みたいなものだ。その時その時に悩みを抱えたり、試行錯誤したり、人に教えてもらったりして、やっと、たどり着くのだ。

そこで、いちばん大事なのは自分はできると思う気持ち。それがないと、頑張れない。そして、歩き出し、歩き続けることが何より大切だと思う。自分はできるという思いを裏付けるだけの陰の努力や準備は怠らなかったという自信が、また、自分を支える次の一歩になる。その上で、時には、自分の方法論を疑い、誤った道を正す勇気を持つのも必要なことだ。

と語る。一般人のワーキングプロセスの組み立て方の参考になるものだし、昨今の時勢と重ね合わせるのも興味深いだろう。

本の結びでは「思いっきり野球を伝えたい」と次のように綴る。

今の私は野球の素晴らしさをもっと伝えたいと思っている。自分を探し、自分を磨く、それが野球の素晴らしさと思う。プロ野球から少年野球まで基本は何も変わりがない。子供たちは、頑張ることの素晴らしさを野球で知る。頑張れば力がつくという喜びをグラウンドで学ぶ。
子供たちはプロ野球選手の姿を見ている。
球場を熱狂させ、テレビを見る子供たちを釘付けにできる選手がいつの時代にも出てきて欲しいものだ。野球の華はやはりピッチャーの三振とバッターのホームランだと思う。王さんの868号ホームランに近づく選手が見てみたいと思うのは私だけだろうか。
若い選手には挑戦する勇気をもってがんばって欲しいと思う。

誰でも可能性はあるはずである。それを形にするのは、成し遂げてみようとしたかどうかではないだろうか。自分の中にその可能性を発見して、自分らしさやそれに賭ける情熱をずっと探し続ける人が、一流の選手になっていくものと思う。自分を探さない人には結果は作れない。
成功する自分は降ってきたり、湧いて出るものではない。
自分のことは自分で必死に探さないといけない。
自分を探求する心が人生の肝である。
そのためにも、出会いは大きい。

私はもっと野球を伝えたい。
野球の一球と一球の間には、どんな人間の気持ちが込められているのか。野球の一試合一試合の間には、どれだけチームのがんばりがあったのか。それをテレビの解説などで少しでも伝えられることは私の喜びである。その中で私は野球に教わることがたくさんあるし、喜びをもらい続けている。

私は、人生というのは大きな川の流れのようなものだと思っている。
その時に現れる誰かに助けてもらい、いろいろなことをさせてもらい、精一杯そこでがんばってみる。また流れが変わり、次に誰かと出会う、大切なことは今の川の流れの中で、自分にできるベストをいつも探すことだろう。それが「自分が何をしたいのか」を知ることでもある。
そうすればきっと誰だって幸せになれる。
大きな岩も一滴の水で砕くことができる。その一滴の水の源は、いつだって自分の心の中にあるはずである。

筆者はかつてNHK-FMに衣笠祥雄が出演するのを偶然耳にした。
ひとから好かれるためのヒントを問うリスナーの質問に
「ひとから好かれようと思う前にまず自分を好きになること。好きでもない自分を他人に好きになれなんて理不尽でしょ?私は自分が好きですよ。そうすれば好きな自分でいられるように自然と努力しますから他人にも好かれるようになるでしょう」
と明快に答えていた。上記の言葉とも一脈通じるものがある。

衣笠祥雄は引退後、コーチや監督に就かなかった。その理由は様々に取りざたされたが、前述のように解説者(主にTBSテレビ)としては好評を博し、亡くなる数日前にも体調不全をおして出演した。この放送をたまたま母と視聴した筆者はあまりに嗄れた声に驚き、どうしてしまったのか心配になった。当然ネット上の話題にも上ったが数日後に逝去が報じられた。自らの言葉を実践し最後まで野球を伝え続けた姿は今なお野球ファンの脳裏に刻まれている。

4回にわたった「プロ野球賢者の書」は一端今回で終了。もちろん「賢者の書」はまだまだたくさんあるので折に触れて紹介するつもり。

※文中敬称略

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