F1世界選手権パーソナル・セレクション【中嶋悟70歳を言祝ぐ】

恬淡たる雰囲気の小さな巨人


日本人初のF1フル参戦を果たした元レーシングドライバーの中嶋悟(1953~)が去る2月23日、70歳の誕生日を迎えた。
故・高橋國光、先日文部科学大臣表彰が決まった星野一義、長谷見昌弘たちと並び、日本におけるモータースポーツの社会的地位を引き上げた大功労者。
とりわけ中嶋のF1参戦により、日本で長く暴走族の延長や公害のもとだと言われたモータースポーツが、海外ではステータスの高い存在だと広く認知され、当時のバブル景気と相まってF1ブームがおきた。
中嶋は5シーズンF1に参戦し、4位2回・ファステストラップ1回を記録、全てのシーズンで最低1度は入賞。26台出場で完走車中の上位6台のみ入賞の時代に大健闘といえる。
唯一無二の存在としてメディアに追いかけられ、不愉快な時もあったろうが、シニックさを交えつつ、淡々と応じる話しぶりはときに痛快さも感じた。
英国に住んだので、引退時に日英友好促進への功績が認められ、外務大臣表彰を受けている。
古希に際し、中嶋悟のF1での好レースの中から今まであげなかったものをご紹介し、改めて先駆者の戦いを見つめる。

1987年第2戦サンマリノグランプリ(5月3日)

中嶋は往年の名門ロータスからF1参戦を果たすが、絶対的エースのアイルトン・セナに資源を集中していたので中嶋にはテストの機会すら殆ど与えられなかった。
しかも、ロータスは同年にまだ開発段階のアクティブサスペンションを実践投入。コンピューターの演算速度の遅さからくる不可解な動きに中嶋はしばしば悩まされた。
加えてFOCAからのお金とひきかえに、中嶋のクルマには車載キャメラが搭載されたが、当時のキャメラは結構かさばる重い代物で、空力とマシンバランスに悪影響を及ぼした。しかも1989年以降のようにキャメラ非搭載車がバラストを積むルールはなく、1台だけハンデ戦みたいなもの。
この第2戦サンマリノグランプリではスタート直前にアクティブサスペンションが壊れ、何とかスペアカーに乗り換えてピットスタート。燃費、ブレーキの厳しさで知られるサーキットでしぶとく生き残り、6位でフィニッシュ。日本人ドライバー初のF1入賞を果たした。
実はスペアカーはセナ用ゆえ、キャメラがついていなかった。最後尾から入賞できた理由のひとつにはクルマの身軽さもあったと思う。
余談だが、予選でおきたネルソン・ピケのクラッシュの映像は時を経て見ても身震いする。この後すぐにコーナー入口をS字状にするなどの改修を行っていれば、2年後のベルガーの炎上事故(幸いドライバーは軽傷で済んだが)と7年後にアイルトン・セナを別天地に送ったクラッシュは違う結果になったと推測できる。

亡きモータースポーツジャーナリストの今宮純は昔の中継で「《苦しい、でも耐える》ができるかどうかが、入賞に届くかの分かれ道」と語った。
35歳からF1に挑戦した中嶋は、決して最良と言えない体制のもと、チームからの扱いやマシンの調子のバラつきを愚痴らず、じっと耐えてチャンスを待った。その結果が、5年連続ポイント獲得達成だった。

※文中敬称略

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