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読めない読めないと言いながらも本を読み続けることについて<娯楽としての読書>

久しぶりに何も考えずに書き出してみようと思う。
いずれまとまって、「ちょこ的読書論」とかになればいいな、などと考えつつ。

今年に入ってから、いや、割といつも、わたしは「本が読めない」とぼやき続けている。
読んでいなくてもぼやくし、読んでいてもぼやく。
とにかくぼやきながら本を読んでいる。

わたしにとって、「本を読む」とはどういう行為なのだろう。
本を読むことで何を得て、あるいは何を得ることを期待しているのだろう。

娯楽のための読書

わたしにとって読書とは、第一に「娯楽」である。
楽しくなければ読書ではないし、読書は楽しいものだ。
誰かに誇るためではなく、自分が満足するために読む。

本当にそうだろうか。

読んでいて辛い本がある。
それでも読み進めなければ、という思いで読み進めている。
その辛さは、読んでいるときに感じるもので、読み終わると「終わった」という爽快感に変わる。
あるいは爽快感ではなく、「終わった……」という後味の悪さであったりもする。

これも娯楽と言えるだろうか。
言えるだろうな、と思う。
なぜなら、嫌なら読むのをやめればいいからだ。
嫌な思いを、というか、辛い思いを、あるいは疑問を持ちつつも読み続けるのは、物語の終着点を確かめたいからにすぎない。
これがニュースやドキュメンタリーなら、嫌になったら途中でとめばいい。
ニュースならば、現実に起こった出来事をベースにしているなら、検索すれば該当の事件の顛末は簡単に調べられる。
何も無理をして、「娯楽」の範囲で読む必要はない。

物語はそうではない。
わたしが好むのはほとんどがフィクションであるからには、「この作品はなんなんだ」と思いつつも読み進めないといけないことがある。
具体的にいうと、わたしは今「レーエンデ国物語」のことを念頭においてこれを書いている。
あの物語を、わたしはまだ理解できない。
なんでああいう話になるのか、納得がいっていない。
にもかかわらず、一度あの世界に足を踏み入れてしまった以上、最後まで見届けないといけない、という思いがある。
最後まで見届けないと、判断が下せない。
自分の読書体験が一体なんだったのか、その正体がわからない。

そう、自分がただ単に納得したいだけなのかもしれない。
そのために、半ばヤケになって、新刊が出るたびに買っては読んでいる。
正直胸糞悪い部分が多い。
けれど読まざるを得ない。
物語を読ませる力があることだけは、確かなのだ。
そのさきにあるものを、わたしは見たい。

娯楽のための読書でないとしたら

そう考えると、わたしの読書は一種の「義務感」から成り立っている。
この物語を見極めなければ、というか、最後まで見届けなければ、という思いが強い。
そうと感じずにすいすいと読める本は素晴らしい。
わたしをあっという間に物語の世界へ誘ってくれる作品はそれだけで素晴らしい。

一方で、読むのが苦痛だけれど好きな作品というのもたくさんある。
「十二国記シリーズ」などその最たるもので、1巻『月の影 影の海』上巻はファンの間でさえ「ネズミが出るまでがんばって」といわれるほど、辛い展開しか続かない(ネズミが出るのは下巻の頭である)。
辛い、辛い、さらに辛い。
主人公がどんどんと辛さの海に落とされてもがく様を、読者はひたすらに突きつけられる。
なんで読んでいるのか、訳がわからない。
この部分がなければ、「十二国記」における陽子の物語は始まらないのは頭では理解しているが、とりあえずあまり読みたくはない。
わたしがシリーズを読み返す際に、ついつい上巻を飛ばして下巻から読んでしまうのも、そのせいだ。
読み返し、という点において、辛い箇所を飛ばせるのは読者の特権だが、読み飛ばしたくなるような辛い展開が物語として必須、というのはこれもなかなか酷な話だと思う。

同じく「十二国記シリーズ」の最新刊、『白銀の墟 玄の月』はもうひたすら読むのが辛い。
辛すぎて泣けてくる。
だがしかし、陽子の話と違って、この4巻に渡る物語は、4巻の半分くらいまで辛い展開続きなので読み飛ばすことができない。
というか、泰麒のこの辛い旅を抜けなければ、光が見えてこないのだから仕方がない。
そしてこの物語は、読者が18年待ち望んでいたものなのだから、もう手の施しようがない。
辛くても読む。
そしてその辛さに納得がいってしまうのだから、仕方がない。
仕方がないなあと思いながら、辛い旅を読む。
これも、物語の行く末を見届けたいからだ。
彼らの思いがどのように応えられるのか、知りたいからだ。
辛くても読んでしまうとき、読みたいと思うとき、やっぱり読書という行為は「娯楽」なのだろうと思う。

楽しい=娯楽、ではないということ

端的にいって、物語には「辛いこと」がつきものではある。
そうでなければぼうけんがはじまらない。
物語がはじまらないのだ。

問題は、その物語が全体として陽の雰囲気に包まれているか、陰の雰囲気に包まれているか、である。
わたしは基本的に陽の物語を好むが、「十二国記」などはどちらのタイプの物語もあるので始末が悪い。
強制的に陰の物語も読むことになる。

その最たるものは、もともとホラー小説として発表された『魔性の子』だ。
わたしはこれが「十二国記」シリーズだと知っていたから読めたものの、そうでなければ読まなかったと思う。
わたしはホラーが苦手なのだ。

ではホラーは全て陰の物語かといえばそうでもなく、同じく小野不由美氏の「ゴーストハント」シリーズはもともとがティーンズノベルだっただけあって、ホラーのくせにめちゃくちゃ陽の物語である。
これは読める。
陽の物語では、基本的に主人公サイドは安全だからだ。
怖いけど、きっと死なない。
それがわかっているから、怖さをエンタメとして消費できる。
主人公サイドが死ぬかもしれないような作品は、常に怖いのでエンタメにならない(わたしの場合)。

人が死ぬ作品を楽しむ姿勢

とかいっておきながら、わたしは平気で人死が出る作品を読む。
ここでいう「人死」とは、推理小説でいう被害者ではなくて、主人公サイドが死ぬ場合である。
読むはずなのだが、いますぐにパッと該当作品が思いつかないのはなぜだろう。
たぶん、ホントの主人公は死なないけれど、主人公の味方が死ぬ(名前ありからモブまで)が多いからかもしれない。
あ、これはダメなやつだ。
書けると思ったけれど書けない。
なのでこの「人死」考察はまたの機会にすることにしよう。
脳みそが混乱してきた。

もう一度、娯楽としての読書について考える

改めて「娯楽としての読書」について考えてみよう。
そもそも「娯楽」とはなんぞや、という話である。
楽しいから娯楽なわけではない。
怖い体験も、苦しい体験も、総じて「よかった」と思えれな娯楽である。
その体験を総合して「楽しかった」と思えれ馬娯楽である。
うーん、言葉が入り混じっていてよろしくない。
「楽しい」には「快楽」と「喜悦」があるわけだが、娯楽としての読書はどちらも含みうる。
読んでいる最中に楽しい「快楽」と、読み終わって満足する「喜悦」。
これが読書の「楽しさ」ではないだろうか。

そうであれば、ホラーだろうがミステリだろうが、怖い描写があったとしてもそれは一種の「快楽」なので、読書としては楽しいのだ(ただし、限度は人による)。
物語を読み進める楽しみ、世界に没入するよろこび、この辺りは「喜悦」かもしれない。
あとでそれぞれの単語の意味を辞書で引いておこう。
いまは感覚だけで書いているが、それは文字を書く姿勢としてはあまり好ましくない。

ちょっとこの辺りで限界が来た。
また今度、続きを書こうと思う。

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