見出し画像

「たえまない嵐に見舞われる東北の海に、ひとつだけ頭をつき出す海抜千六百メートルほどの山がある。」

この本は、本当に久しぶりに手にとりました。最後に読んだのはいつだったでしょうか。
中学のとき、このシリーズを何度も読んでいました。当時は四部作で、しばらく経ってから5冊目が出て、さらにだいぶ経ってから6冊目がでました。

画像1

アーシュラ K. ル=グイン著、清水真砂子訳『影との戦い ゲド戦記1』(岩波書店, 2003年)

今わたしの手元にある本は、もともと読んでいた本ではありません。
わたしはこの物語を、13か14の頃に読んでいましたが、大人になってから引っ越したときに、1巻だけどこかに行ってしまったのです。しばらくはそのままになっていたのですが、気が付いたら岩波の箱入りの本は絶版かそれに近い状態になっていて、あわてて古本屋で探して購入したのでした。
なので、手元のコチラは実は一回も読んだことがないのです。
なんだかごめんね。今後読むからね。

あまりに久しぶりすぎて、内容をほとんど覚えていません。
「ゲド戦記」シリーズ全体のことでいてば、わたしが一番好きなのが3巻の『最果ての島へ』で、主人公となるレバンネンが好きですし、印象深いのでいえば2巻の『こわれた腕輪』でテハヌーが外へと足を踏み出す場面です。
映画のベースとなった4巻の『帰還』については、ものすごく哀しい、という印象があります。え?映画化?したっけ。してないよ、きっと。ゲド戦記は映画化してないと思うね。うん。

このシリーズは、全体としてゲドという魔法使いの、少年期から老年期までを描いています。
1巻の『影との戦い』は、少年ゲド、通称ハイタカが、魔法使いになるために修行をし、そしてとんでもないことをしでかす、という物語です。

そうそう、思い出してきた。
「影」の扱いというか、「影」という存在が、とても心理学的というか精神学的というか、そういう立ち位置にいるのが印象的でした(素人の感想です)。
いやでも、2巻にしてもそうだけれど、「自己とどう向き合うのか」というのがこの作品の大きなテーマのひとつではないかと思います。


…… こういうのをね、多感な中学時代に読むとね。
そして「自由とは」「責任とは」というようなことを考えているような時代には、まあとても効くんですよ。ふふふ、中学生だったな、あのころ。

この作品での「魔法」の取り扱いがまたおもしろくて、「真の名前」を知るというのが魔法の肝になります。
真の名前を知っていれば、そのモノー物であれ人であれーを意のままにできる、というものです。ですが、その力を行使した結果までは、操ることができません。
たとえば、西の方で雨を降らせる。すると東で降るはずだった雨がなくなってしまって、東が水不足になりうる、というような縛りがあります。結果、この作品の魔法使いは「魔法」をほとんど使いません。

これは『指輪物語』のガンダルフにも通じることですが、魔法使とは「物事に精通しているひと」であって、真の働き、正しい姿、本当の意味、というものを知っているがゆえに、起こるべきことを予見でき、奇跡のような力を使うことができるのです。
発達した科学は魔法と同じ、とよく言いますが、そもそも魔法とは、知識の集大成を正しく用いる力なのかもしれません。


高慢な少年ハイタカは、まだそのことを理解していません。
人より賢く、才能があるというだけで禁じられた魔法を使ってしまい、そのあと何年も魔法の後始末をつけるために苦労します。
彼はそうして、世界を知っていきます。世界を知り、自分を知り、自分が世界の中でどれだけ小さな存在であるのかを知っていきます。

冒頭の文章は、ハイタカが生まれ、また多くの高名な魔法使いを排出した島を指しています。
ひとつだけ突き出した高い山は、才能あふれるハイタカのことでしょうか。
それとも物語が、ハイタカというひとりの小さな人間よりも、世界そのものの過酷さと成り立ちに重きを置いている、という示唆なのでしょうか。


放っておいても好きなものを紹介しますが、サポートしていただけるともっと喜んで好きなものを推させていただきます。 ぜひわたしのことも推してください!