こころと読書

えらそーな文学批評ができるわけじゃないんだけど、今日は夏目漱石の『こころ』の話。

高校2年生の時、夏休みの宿題で『こころ』の読書感想文が出た。多分、みんな経験するであろう恒例行事だろう。

あまり本を読む方ではなかったので、純文学はどうもとっつきにくかった。

なんだか、うじうじと考えてる人間ばかり出てくるし、明らかにわざと読みづらくしてない?という文体をしていたためである(今になると、漱石の文章がいかに現代人にも浸透する力を持っていたかを思い知る)。

途中まで読んで、パタリと閉じると、感想文に「先生がなんかうだうだ考えてて、なんで主人公が尊敬したのかわかりません。つまらなかったです」と書いて、現代文の教師に叩きつけてやった。

これが、自分と『こころ』の出会いである。
純文学との出会いと言い換えても良い。

その後、二学期の現代文の授業では、各々が夏休みに読破した(はずの)『こころ』について学習することになった。
これが幸運であった。

実は授業で扱ったのは、自分が「やめてしまった」物語の後半部分であったのだ。いわゆる、先生と遺書のパートというやつだ。

まさに漱石が魂を削りながら書いた先生の罪について、自分は初見の状態で、しかも百戦錬磨の現代文の教師の解説付きで味わうことができたのだ。

非常に印象深かったのは、その教師がKの自殺について行った解説だった。

「君らにはKが恋に負けて、先生に裏切られて自殺したと見えるよね。だけど、本当にそうだろうか?」

そう問いかけると、彼は「Kは自分自身に殺されてしまったんだよ」と続けた。

あまりピンと来なかった。
そりゃあ、自殺なんだからそんなもんだろ。

「これが時代の転換期なんだ。明治時代。個人の時代の始まりだ。家ごとに決まった仕事に就くだけじゃなくて、人々は新しい時代を自分でどう生きるかを考えたんだ。そして、考えて、考えた結果、こうやって悩んで押し潰されてしまう人もいたことを漱石は伝えたかったんじゃないかな。」

正確には覚えてないけど。多分こんな感じ。
今になるとなかなか飛躍した読みだなぁと思いつつ、当時の自分にはすっと純文学が、明治という時代が腑に落ちた気がした。

なんで自分のことをこんなにぐだぐだと考えてるのか、そして、明治天皇の崩御と共に殉死しなくてはならないのか。

それは明治という時代が自分の生きた、自分のための時代だったからなんだと思う。

よく「時代が終わった」とか言うけど、明治天皇が亡くなった時、漱石は時代が終わるのを肌で感じたのではないだろうか。
そう考えると、『こころ』は明治時代の人間たちの思いや葛藤を、現代の私たちにも想像させてくれる、そんな本であると言えるだろう。

そして、こんな風に、一つの文章についてあれこれと考えるのが、「読書」なのだと思い知ることになった。
特にこの『こころ』という作品は無限にいろいろなことを考えることができる。凄まじい本である。

大学に入ってから、それを痛感することになった。
友人の一人に『こころ』について考えている奴がいた。

そいつは自分が印象に残ったKの自殺の場面ではなく、主人公の私が親の元を離れて、先生の元に向かう汽車に飛び乗る場面にひどく感銘を受けていた。

「血のつながり」よりも、私は「心のつながり」を優先したのである。
この部分はむしろ、現代にも繋がる部分かもしれない。
「家族」というのは単に血の繋がった者たちではなく、心の通った者たちを指すこともある。家族にも色々な形があることを、血のつながりすら超越する思いがあることを漱石は考えていたのかもしれない。

さて、最後に。
自分はどーしても、この「こころ」というタイトルが引っかかった。
なんというか、もっと違うタイトルでも良いのになと思ったのである。
例えば、「人間」とか「生きる」とか。
なんで漱石は「こころ」を書こうと思ったんだろうか。

授業後に、国語科の準備室(教師たちが待機している部屋)を訪ねてみた。
あの現代文の教師がやや驚いた表情をしていたのを覚えている。
おそらく、感想文のことがあったからだろう。

「こころ、面白かったか?」

自分は頷くと、タイトルについて彼に尋ねてみた。
そして、ちょっぴり困った顔をしながら「正確には知らないけど」と前置きすると、漱石が人の心についての小説をいくつも書こうとしていたこと、この作品はその中に位置することを教えてくれた。

自分があまり腑に落ちなかったのが顔に書いてあったのだろう、彼は続けて『古今和歌集』の紀貫之による「仮名序」についての話を紹介してくれた。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
(和歌[文学]は人の心を出発点として、沢山の言葉を生み出すものである。この世を生きる人々は、色々な出来事を経験するので、心に思うことや目で見たり、耳で聞いたりすることを用いて、表現するのだ。[意訳、誤訳失礼])

「いいかい。心は言葉の種なんだ。人間は何かを思うから、文章を書く。僕は本を読むたびにこれを思い出す。文章を書く人も同じなんじゃないかな。だから、漱石が人間を書こうと思ったときに、「こころ」を書かなきゃいけないと思ったんじゃないかな。」

そして、彼は「でも、大きなタイトルを付けたもんだよね。こころって」と笑った。

「読書って面白いだろ。色々な本を読んで、色々な人の心に触れなさい。」


昨今、義務教育の中ですら、「実学」が叫ばれている。
国語の授業で最も重視されるのは受験対策になりつつあるのかもしれない。
もちろん、国語のあの「ア〜エの選択肢」を選べることは大事なことだ。

けれど、国語の教師の役割はそれだけじゃないと思う。
自分が現代文の教師にしてもらった授業と、現代文の授業を通じて考えたことは明確に自分が文学を好きになるきっかけであったし、有意義な時間だった。
こうやって文章を書くのも好きになったのは、読書を好きになったおかげだと思う。


平成を21年も生きたのに、なんだか自分の時代という感じはしなかった。
生き方を決めるのに、21年は短かかったのかもしれない。
というより、迷いに迷った21年間だった。

もうぼちぼちいい年齢になる。生き方を決めねばならない。
「向上心のないものは、馬鹿だ」。

そして、令和が終わるときにもう一度『こころ』を読み返すことにしよう。




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